2014年ベスト映画

年の瀬ですので、長文ですが、隙間時間にでも。

次点
ダラス・バイヤーズクラブ
『スガラムルディの魔女』
『トム・アット・ザ・ファーム』
『やさしい人』
メビウス
『百円の恋』
『フランシス・ハ』
アデル、ブルーは熱い色
プリズナーズ
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー
ベイマックス
グランド・ブダペスト・ホテル
『ザ・イースト』

10位
アレクサンダー・ペイン
ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅
アレクサンダー・ペインの映画は、ややもすればお涙頂戴の凡庸な感動作になりかねない題材を、それが孕む静かな、のっぺりとした毒をも仕込むことによって見るものに鑑賞後も思考を促し続け、それでいてやはり至上の安寧を与えてくれるのである。
安易な、生温い感動や感傷には流されず、しかしながら、奇を衒っただけの特異性に逃げることもせず、諦観に満ちたシニシズムに溺れるのでもなく、正面から人間/人生を見据えることで、見るものをある個人的な体験/記憶へと連れて行ってくれるのである。

誰が見ても胡散臭い宝くじの当選を信じ、賞金を受け取りにネブラスカまで向かう年老いた父親と、そんな父親にげんなりしながらも同行する息子のロードムービーという、これ以上ないほど簡素な内容であるにもかかわらず、在りし日の思い出が刻まれたアルバムを一枚一枚丹念に捲っていく時のような豊穣さと広がりが生まれていく。

どこにである普遍的な親子の物語が、モノクロの画面に映し出され、停滞していた時間が静かに動きだし、過去の交流が詳らかにされる、たったそれだけでキャラクターが瑞々しく輝き出し、こんなにも見るものの胸を打つのである。

9位
リチャード・リンクレイター
『6才のボクが、大人になるまで。』
2014年は間違いなく、リチャード・リンクレイターの新作が2本、日本で同一年に公開された年として記憶される。
リチャード・リンクレイターは「時間」の映画作家である。『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』『ビフォア・ミッドナイト』の三部作において、表面上はある同一線上の時間軸における物語を展開するが、「時間」を自由気ままに操作し、引き伸ばし、短縮し、飛び越え、「時間」を前景化することで、華麗な時間旅行を提示してみせた。

『6才のボクが、大人になるまで。』でも、12年間を同じキャストで撮影することにより、より映画における「時間」を見るものに意識させる。
いかに「時間」を持続させ、分断し、紡ぎ合わせるかは、おそらく映画がその誕生から常に向き合わせられてきた課題である。
人の人生には伏線回収も、気持ちのいい辻褄合わせも、よくできた脚本もない。しかし、ほんの些細な奇跡は起きうる。それはある人の人生において、意識の埒外にあった他人や出来事が不意に意味や繋がりを帯びる瞬間である。

ラスト手前、母親が長年の澱を吐き出すかのように吐露する言葉が、本作で描かれる「時間の有限性・不可逆性」を象徴している。
「こんなはずじゃなかった!もっと長いと思っていた!」そんな後悔ばかりが人生にはつきまとう。

必ずや自分の人生に決定的な変化をもたらしてくれるはずだと思っていた人が急に人生=物語から逸れ、ただの他人にしか思っていなかった人がささやかな意味をもたらしてくれる、そんな人生の瞬間瞬間を見事に捉えるリチャード・リンクレイターは、時間藝術たる映画の本質を真摯に追い続けるのである。

8位
パク・フンジョン
『新しき世界』
韓国映画が世界的な評価を確実なものにして久しい。ポン・ジュノはBD原作のSF映画『スノピアサー』で、パク・チャヌクミア・ワシコウスカを主演に据えた『イノセント・ガーデン』で、キム・ジウンは、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『ラストスタンド』でそれぞれハリウッドデビューを果たしている。
各々の作品評価はあるにせよ、ハリウッドを席巻する韓国映画界の層の厚さと地力の強さ、常に新しい血を求めて才能ある映画人を躊躇いなく登用するアメリカ映画界の柔軟さに嫉妬を憶える。

『新しき世界』もまた、円熟を迎えつつある韓国映画界から放たれたエポックメイキングな作品であると断言したい。
現代韓国犯罪組織版『ゴッドファーザー』とも呼ぶべき作品であり、韓国血縁社会の禍々しさと暴力性を湛えた作品であり、見るものの神経をじりじりと窶れさせていき、首根っこを強引に鷲掴みにしつつも真綿で絞めるようなげっそりするほどの執拗さで描かれた潜入捜査モノであり、組織の枠組みの中に囚われ、望まない選択をせざるをえなくなってしまった男たちの哀切を漂わせるバディモノである。

今や韓国映画には欠かすことのできない斬新なバイオレンス描写(漏斗でセメントを無理矢理飲ませてコンクリート詰めにする場面のおどろおどろしさたるや!)と緻密なアクション演出も抜かりなく、この作品一本で、今の韓国映画の質の高さを存分に堪能できる。

7位
アレハンドロ・ホドロフスキー
『リアリティのダンス』
アレハンドロ・ホドロフスキーこそ言葉の真の意味において、「アウトサイダー」である。
詩人として、パントマイマーとして、劇作家として、舞台演出家として、映画監督として、バンドデシネ作家として、サイコマジシャンとして、ほとんどありとあらゆる藝術的肩書きを持つホドロフスキーにとって、そうした肩書きが意味を持つことはない。
便宜上そう呼ばれるだけであり、彼はそうした既存の肩書きを嘲笑うかのようにあらゆる垣根を飛び越え、おそらくは唯一ホドロフスキーを表現するに足る「魔術師」として、目眩と幻惑を引き起こす藝術を生み出すのである。
彼の魔術の毒牙にかかれば、全ての現実が、幻想が藝術として再誕する。

本作は彼の自伝『リアリティのダンス』(現実と幻想を綯い交ぜにし、晦渋でサイケデリック文体で読み手の理解を拒み、しかし、その理解を超えた先にある陶酔に読者を連れて行く稀有な文学作品)の映像化である。
自らの人生=過去をマジックリアリズム的な手法によって脚色し、捏造し、事実を誇張し、現実を歪曲することによって、自らを神話世界の登場人物として再生してみせる。
映画を完璧なメディアとみなし、全てを包含する豊かさを孕んでいると語るホドロフスキーの言葉通り、『リアリティのダンス』で現実と幻想の撹乱によってもたらされる豊穣さは、贖罪と救済を歪な形で与えてくれる。

「芸術家の至上の役割は、祝祭を創りだすことではないのか」と語り、「人を癒さなければ、芸術ではない」とまで断言するホドロフスキーの映画は、無意識は象徴や暗喩を受け入れ、それらに現実の出来事に対するのと同じ重要性を与えるというサイコマジックの前提を経て、見事に「祝祭」の、「治癒」の藝術に昇華しているのである。

6位
マーク・ウェッブ
アメイジングスパイダーマン2』
2014年に公開されたヒーロー映画は純然たる娯楽映画として、そのどれもが超一級の作品ばかりである。

キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』は、超高密度のポリティカルスリラーであり、なにより実写映画における肉弾戦アクションをネクストレベルに引き上げ、大作映画ならではの外連味も失わないアクションシーンのつるべ打ちに、失神してもおかしくない。見終わった後に、「キャップ、あんた最高だぜ!」と親指立てたくなるぐらいキャプテン・アメリカがカッコ良く描かれており、数多いるマーベルのヒーローの中でもキャプテン・アメリカこそが最高なんだと信じて疑わないファンからすると、もう全てがパーフェクトなのである。

X-MEN:フューチャー&パスト』では、映画版『X-MEN』シリーズの生みの親ブライアン・シンガーが『X-MEN』という題材と本気で向き合った結果、紆余曲折ありつつも辿り着いたある一つの終焉があのラストの風景だとするならば涙する他ない。
今まで『X-MEN』シリーズで積み重ねられてきた登場人物たちの関係性を、その逡巡も葛藤も矛盾も友情も愛情も信頼も敬愛も全部ひっくるめて肯定しつつ、あれだけの苦しみと孤独を背負わされ、絶望と失意に耐え、それでも一縷の望みに善意を託すなら、優しさと美しさに包まれた未来を少しぐらい夢見てもいいじゃないかというブライアン・シンガーの気概に触れれば、本作の設定上/物語上の欠点などまるで気にならない。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は、今まで星の数ほど作られてきた『スター・ウォーズ』の変奏としてのSFアクション・スペースオペラとは異なり、新時代の幕開けを告げる宇宙冒険活劇である。
故郷も家族も普通の生活も失った負け犬たちの崖っぷちからのワンス・アゲイン物語を軸に、画面に横溢するセンス・オブ・ワンダーの数々が、忘却されてきた過去のアイコン・音楽とともに再生される時、最高にゴキゲンな映画が誕生し、最高にクールなヒーローたちが世界のピンチを救う。
小気味よさとユーモアと快楽とヒロイズムに満ち溢れたスペースオペラを現代に蘇らせ、創り上げたジェームズ・ガンは途方もなく偉大な映画作家である。

ベイマックス』は、アニメーションの視覚的快楽を1秒たりとも失うことなく、「オタクがオタクのままヒーローになる=自らの内にあるヒロイズムを選択する」物語を真っ正面から描き切る、つまり、ディズニーとマーベルそれぞれの最良の部分であり本質を、過不足なく破綻なく集約させ、しかも老若男女問わず楽しめる突出した作品である。
映画の始まりから終わりまで、常に多幸感に包まれた画面で展開されるヒーローの誕生譚は、過去の様々なヒーロー映画の要素の踏襲にすぎないと言われればそうかもしれない。
しかし、それらをより広範囲の客層に響かせるのがディズニーとマーベルの矜恃であるし、そここそが最も評価されるべきである。民衆を置き去りにし、人助けも忘れてヴィランを倒すだけのヒーローが愛されないのと同じように、観客を置き去りにし、「大人向け」「哲学的」「現代的」などといったエクスキューズで粉飾されたヒーロー映画もまた、愛されるはずもない。
また、『アイアンマン』でトニー・スタークがそうであったように、自分でなにかを想像し、創造し、工夫し、加工し、修復できる人こそがヒーローたりえるのだし、そのために勉強することは最高にクールなことなのだ。
未だに勉強すること/何かを好きでい続けることをかっこ悪いこととして捉え、嘲笑し、愚弄し、ガリ勉/オタクなどといった表面的で画一的なキャラクター造形しかできないとすれば、それは「恥辱」以外何物でもない。

2008年『アイアンマン』以降のマーベル・スタジオズは映画製作会社として、他社の追随を全く寄せ付けない興行的・批評的成功をおさめているが、それぞれが違うベクトルでパーフェクトなヒーロー映画をここまで連発されると、ベストテンの半分がアメコミ原作のヒーロー映画になってしまう(『キャプテン・アメリカ/WS』も『X-MEN:DoFP』も『ガーディアンズ〜』も『ベイマックス』も入ってないベストテンなんて我ながらどうかしてる!)ので、理屈と感情を捏ねくり回して一作だけ選出。

アメイジングスパイダーマン2』は、文字通り「アメイジング」なヒーロー映画である。
前作において過剰な丁寧さで積み上げられてきた伏線がカタルシスを醸成し、ヒーローの成長譚(=挫折と再生)、ヴィランの誕生譚、恋愛/友情映画としての甘酢感、ニューヨークのビル街を縦横無尽に飛び回る臨場感と爽快感抜群のアクション演出、全てに「スパイダーマン」ならではの工夫が熟されており、ヒーロー映画かくあるべしといった作品になっている。

他のマーベルヒーローとスパイダーマンの一番大きな違いは、どれだけ世界の危機を救おうがスパイダーマンは「ニューヨーク市民」のヒーローであることではないか。だからこそ「親愛なる隣人」スパイダーマンニューヨーク市民を救うことを第一義的問題として捉え、その結果として民衆から愛され、喝采を受けるヒーローになっていくのである。
そして、ヒーロー映画において「人命救助」は何よりも重要な要素である。クリストファー・リーヴ版『スーパーマン』が今なお世界中で愛されているのは、作中描かれるスーパーマンの選択/行動が徹頭徹尾「人命救助」と結びついているからであり、「人命救助」を疎かにするヒーローが愛されるはずがない。

生死を賭けた闘いの最中で軽口を叩き、冗談を飛ばし、待ち伏せの時間にiPhoneでゲームをする、そんなユーモアと愛嬌に溢れる本作のスパイダーマンも、どれだけ軽薄に見えても「人命救助」を蔑ろにすることはない。
周囲の愛する人々への思いやりが強過ぎるからこそ、スパイダーマンは悩みを共有できるはずの人に自らの秘密を伝えることができず、それが巡り巡ってある悲劇的な末路に繋がっていってしまうのである。

「大いなる力には大いなる責任が伴う」は『スパイダーマン』シリーズの一貫した命題であるが、ともすればダークサイドに堕ちてしまいかねないほどの残酷な現実に直面し、苦悩し、葛藤し、それでもそんな暗部をひた隠しにして、飄々と、軽快に、時にお気楽さすら垣間見せつつも件の命題に殉ずるスパイダーマンの、ヒーローとしての業の深さを改めて思い知らされるに至る。

余談になるが、
「僕の道と君の道が違うはずがない!僕の道は君だ!」
こんなありきたりな、気恥ずかしくすらなる台詞に嗚咽させられるとは思ってもみなかったが、この愚直さは清々しく、心地よい。

5位
ワン・ビン
『収容病棟』
ドキュメンタリー映画作家は映像の暴力性を生身の人間に突き付け、時に人権すらをも剥ぎ落とし、人間の内面を露わにし、世界の暗部を抉り、そうすることによって人間の覗き見的欲望を充たす、言わば呪われた藝術家であり、「冥府魔道に生きる」を体現することを厭わない覚悟がなければ、その存在自体許されるはずもない。
人間にカメラを向けるとは、それぐらい過酷な作業なのである。

それも世間から誤解され、疎外され、忌避される存在にカメラを向ける時(語弊を恐れずに言えば、覗き見的欲望を充たすには最良の題材)、本作においてそれは中国・雲南省の「隔離病棟」に収容された人々であるが、ドキュメンタリー映画作家は映像の暴力性に対する自覚と生死に関わる倫理観を否が応でも突きつけられるのである。

ワン・ビンは被写体を至近距離から撮影することはせず、ある一定の距離を保つことで、あらゆる感情をフラットに静観する。だからといって中立・客観性を気取るわけでもなく、自らに課した枷を逆手に取り、その「不自由さ」の中でこそ際立つ「自由さ」を獲得し、時にズームで「寄る」ことで、時に映画の文法を無視するかのような素振りでカメラを動かすことで、微細な感情の変化や各人の行動を記録していく。カメラの存在が消え去っていく過程を経て、4時間近い、気が遠くなるような記録の積み重ねの果てに、ワン・ビンにし描けない「世界」を立ち上がらせてしまうのだ。

本作は「精神病院」に強制的に収容された人々を被写体としているが、彼ら彼女らを所謂「精神病患者」として一括りにすることはできない。
だからこそ「収容病棟」なのである。
暴力的/非暴力的な患者、法的に精神病のレッテルを貼られた者、アルコール/薬物中毒者、政治的な陳情を行なった者、一人っ子政策に違反した者、強制収容されたことで精神が狂ってしまった者、様々な人々が「精神病患者」として無理矢理カテゴライズされ、治療を目的とした「入院」ではなく、臭いものには蓋をせよ的な論理によって「収容」されてしまう。
イデオロギーの喧しい主張などすることなく、国家/政府の暴力性を静謐に暴き出しつつ、同時に劣悪な環境で生きながら、いやそこで生きるからこそ人間の愛に飢え、プリミティブな衝動と欲望を剥き出しにする人々にそっと寄り添うワン・ビンの視線は、誰よりも冷徹で、誰よりも柔和である。

4位
デヴィッド・フィンチャー
ゴーン・ガール
デヴィッド・フィンチャーの最新作は、ジャンルの横断ではなく、ジャンルの融和によって見る者を当惑させる。
既成の枠組みを拒否するかのように変容していく映像の連なりは、見る者をちっぽけな想像の埒外に連れ出していく。

ソーシャル・ネットワーク』以降のフィンチャー映画が常にそうであるように、本作も映画自体のルックを裏切る形で、純然たる愛が描かれる。
重厚な人間ドラマなどという愚鈍さは微塵も感じさせず、ジャンル映画における悪い意味での諦観もなく、人間の本質を、狂おしいほどに人を愛することのどうしようもなさを、その愛に殉ずるために行使される人間の狡猾さを精妙な手捌きで解体し、提示してみせる。

本作の入り口は愛する妻の失踪によりメディアに踊らされ、果てには妻殺しの疑いをかけられた男のミステリーでよい。間口は広くすべきだ。
しかし、デヴィッド・フィンチャーという監督は、そこに留まる気などさらさらないのである。
だからこそ『ゴーン・ガール』が突き付ける問題提起は見るものに鋭く、重く、深く刻まれ、色々な側面からの思考を促され続けるのである。
夫婦という「最も身近な他人」の理解不可能性、役割を演じることへの自覚/無自覚と共依存、他者からの評価でしか自分の存在を肯定できない人間、薄皮一枚剥ぐだけで今まで見て見ぬ振りしてきたものが立ち上がる。なんと鮮烈な解剖だろう。

触れただけで崩壊しかねない危うげな薄氷を軽やかに、スマートに渡り切った最果てにフィンチャーは問いかける。人はなにを信じ、なにを愛し、なにを演じるのかを。

3位
マーティン・スコセッシ
ウルフ・オブ・ウォールストリート
舞台はアメリカのトチ狂った金融業界、実在の株式ブローカージョーダン・ベルフォートの回想録を原作に据えた本作は、全編がドラッグ&セックス&金で彩られ、不謹慎と反道徳の限りを尽くした気狂いたちの狂想曲である。
まともな感性、常識、知性、良識、公序良俗なんてものは、キレキレのスコセッシ世界では全く通用しない。

グッドフェローズ』『カジノ』を撮り上げた頃の若々しさは未だに衰えを知らず、金とドラッグに溺れ、蕩尽し、悪態を繰り返し、それでも成り上がるために周囲の人間に「FUCK!!」と中指突き立てる痛快さに心が踊る。
成り上がってなにが悪い!金を稼いでなにが悪い!人を騙してなにが悪い!と、ここまで大上段に開き直られると、スーっと溜飲が下がるのである。
映画は、本来であれば誰からも忌み嫌われ、嫌悪され、見放されるような最低最悪の人間のどうしようもないほど下劣で低俗な人生にさえ、心を鷲掴みにされ、感情移入をさせてしまう不思議な装置なのだ。

ラスト、安全圏でこの映画をゲラゲラと笑い飛ばしてきた観客にスコセッシはドス黒く鋭利な刃物を投げつけてくる。
本作の主人公をクズだの最低だのと断罪していい気になってるそこのお前!お前!お前!
お前らこそが、実体をもたない空疎な金に踊らされて、あるはずのない金に駆られて欲望丸出しにして、色気を出してバカみたいに加担するんだ!
自らもまた加担者であることに無自覚な人間の方がよっぽどタチが悪く、そんな善人面を引っぺがして人間の欲望を丸裸にするスコセッシの聡明な悪意に戦慄する他ない。

2位
クリント・イーストウッド
ジャージー・ボーイズ
アメリカのロック&ポップスバンド、フォー・シーズンズの結成、成功、解散までの道程を老獪かつ鮮やかな手腕で紡いでいく。
映画が誕生してから最も蜜月の関係にある音楽が、映画と最上の関係を結ぶ時、見るものは映画のありうべき理想像を夢想するのである。

グラン・トリノ』でアメリカ映画の終わりを突きつけ、それでもなお継承されるものとしてのアメリカ映画を提示したイーストウッドが、現役最高の映画監督として今もなお君臨してしまっていることへの怯懦と畏敬なくして、アメリカ映画と対峙することはできない。

質の高い演技のアンサンブル、無駄のない構図、キレのある編集、音楽の入れ方、含みのある語り口、題材へのアプローチの仕方、青春群像劇としての完成度の高さ、オリジナルのミュージカルに最大限のリスペクトを込めた映画ならではの再構築、ラストの大団円、全てを老練な手腕で纏めあげるイーストウッドに死角など見当たらない。

これが映画なのだと言わんばかりに繰り出される映画的享楽の連打に陶酔し、驚愕し、打ち拉がれ、彼の新作を今後も(少なくとも次の作品は)見ることのできる歓びを噛みしめるだけでよい。


1位
ジョエル&イーサン・コーエン
インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌
本作に関しては長文で感想を書いたので、詳細はそちらを参照していただきたい。
http://d.hatena.ne.jp/kiiikuuu908/touch/20140704/1404453361

世界でこの映画/この人間を理解できるのは自分しかいないのではないか、という夜郎自大と恐怖、孤絶(そんなものはただの傲慢に過ぎず、肥大した自意識を制御しきれない愚かな人間の妄言なのだが)を経験してしまった立場からすれば、生涯心の奥底に留めておきたいと切実に願った、他の何にも代え難い映画である。

思いがけぬ邂逅が、ゆくりなく訪れる遭遇が、人の人生に微かな意味を与え、自らの与り知らぬところで継承され、波及していく。幾多もの敗北と消失を潜り抜け、時代も地域も国家も人種もなにもかもを超えて、媒介者として映画は、藝術は生き延びるのだ。

なにかを語り、歌い、描き、踊り、書き続ける限り、それらがたとえ断絶の危惧に晒されたとしても、引き継がれる意思があり、積み重ねられる表現があり、それこそが生きる技藝としての藝術であり、人間の最も優れた能力なのだと、改めて確信するに至る。

『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』 螺旋型の浮上への永遠の停滞

無性に自らの人生を否定したくなることがある。
それが故なきことだと知っていながらも、自らの境遇を嘆き、他者を羨み、悪態をつき、そんな自分を肯定してくれる人ですら傷付け、それが自らを傷付け、延々と堕落していく他ない循環を巡る。
完全に閉じて、どこにも逃げ場はなく、螺旋型の上昇もない、そんなルーティンが永遠に続くのかと思うとうんざりし、全てを投げ出したくなる。
「自分は、生活のために自尊心まで安売りするあいつらとは違うんだ、最後まで理想形を追い求め、その過程でどれだけの人に迷惑をかけようが、傷付けようが、そんなものはちっぽけなことで、つまらないリアリストの戯言だ。」
そう強がってみせても、この停滞した一日と地続きの人生は、生きづらく、すぐにどん詰まる。

こんなことを考えたことのある人にとって、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』は劇薬であり、消し去れない傷痕を残してくれるだろう。
それを閉塞し乾ききった日々を打開する微かな希望ととるか、抗ったところで何の変化も訪れない絶望ととるかは鑑賞者に委ねるとして、厳しさと優しさを危ういバランスで同居させるコーエン兄弟の視線に、彼らの円熟が滲み出る。

コーエン兄弟にとって世界は不条理であり、人間は不可思議な存在であり、それを過剰に拡大したりつぶさに観察することで、笑いと恐怖が混在する独特な世界を屹立させるのである。
彼らを評するのに、「シュール」という言葉が使われがちだが、このなんでもござれの屑籠的概念になりつつある言葉に収斂させるのは相応しくない。

1961年、ニューヨーク。
身も心も窶れさせる厳しい寒風が吹き荒ぶグリニッジ・ヴィレッジに生きる「汚辱に塗れた人」ルーウィン・デイヴィスはフォークソングのシンガーである。
一文無しで友人の家を転々とする彼の一週間を捉えた、非常にミニマムな物語。
細部の積み重ねにより徐々に提示されるルーウィンの悲痛な過去、閉塞感漂う現在から、彼のいない未来への不意の飛翔へ。

多くの方が指摘するように、本作では、「道」「扉」「猫」が象徴的に画面に配置され、それらが多くを代弁している。

驚くほどの単純さなので、わざわざ言葉にするのも野暮なことだが、その日泊まる場所を探してとぼとぼと歩く、あるいはヒッチハイクで乗ったオンボロ車で目的もなくひた走る、ルーウィンが通る「道」は彼の「人生」そのものだ。
この「道」はどこまで続くのか、この「道」に終着点はあるのか、延々とこの「道」を堂々巡りするしかないのか、昏くぼやけた「道」の果てが見えない。

シカゴでの偶然の出会いに際して、今まで自分が直視せずにいた現実を突き付けられたルーウィン(あの演奏の後に無惨にも放たれる「ある言葉」には、コーエン兄弟的な現実の不条理を体現し、見る者にも失意と絶望を突きつける)は、ニューヨークに戻る道すがら、寝ぼけ眼で街の光を幻視する。
実際それは現実に存在するものだとしても、ルーウィンの視線を通じて見えるそのぼやけた小さな光の集合体は、なにかこの世ならぬ場所に思えて仕方が無い。
その「街の光」に通じる「道」もある。ルーウィンはそれに目を奪われ、明らかに目視するのだが、その「道」に逸れることなく、今まで自分が来た「道」をそのまま走り抜けてゆく。

彼は「別の道=生き方」を選択することができない。自らを苦しめる閉塞した「道」のすぐそばに、この停滞した日々を変革しうる「道」があることを認識しつつ、それでも惰性に引っ張られてしまい、抗うことすらできない。
そんなルーウィンの人生を象徴する場面であり、これほどの誠実な哀切をいくばくかのシニシズムも纏わせず描く本作の監督は、本当に自分が知っているあのコーエン兄弟なのかと邪推したくもなる。

「扉」はルーウィンの人生における変化の契機として存在する。
彼がなにか行動を起こす、それは常に「扉」を開けて外に出る/中に入るという動作が起点にあり、彼が定住地を持たず、友人の家でその日しのぎの生活をしていることと深く関係している。
彼が「扉」から出るたびに、見る者はささやかな変化と希望を感じるが、ちょっとした物語を経て彼が同じ「扉」に入るのを見て、結局いつもの地点に戻るしかないのかという失意に打ち拉がれる。
まるでその繰り返しが人生だと言わんばかりに、希望と熱意は絶望と失意に成り果て、それでもその微かな光を追うことでしか、日々を繋ぐことができない、ということがおそらく映画史でも類を見ないほど多くの「扉」から出る/入るを捉えたショットの積み重ねによって提示されるのだ。

「猫」は端的に、なんの衒いもなく、「自由」という概念を具現化した存在と言ってしまえるだろう。
「猫」は「道」も「扉」も関係なく、自由気ままに街を闊歩し、「道」に雁字搦めになったルーウィンを翻弄する。
そのあまりの自由さに彼は困惑するが、彼の子かもしれない子を身籠った女性との真剣だが、はたから見るとユーモラスですらある言い争いの途中で断ち切ってまで、「猫」を追い求める。
映画の中で「猫」は不意にいなくなり、偶然とはいえやっとルーウィンの手許に戻ってきたと思ったらそれは違う「猫」であり、自分の与り知らぬところで再び現れる。
自分にはない「自由」を謳歌する「猫」に、ありうべき理想の自分を重ね合わせるルーウィンが、「猫」に恋い焦がれ、固執するのは必然である。
飄々と軽快に、自らに向けられた想いなど意に介さず、縦横無尽に駆け抜ける「猫」は、この逃げ場のない停滞した日々を描く作品において、柔らかく吹き抜けてゆく風のような存在であり、一種の清涼剤として、見る者に少しばかりの安寧を与えてくれる。
と同時に、「猫=自由」に追い縋るルーウィンの滑稽さと悲惨さが浮き彫りにされ、より彼の逼迫感が伝わってくるのだ。

本作のラスト、コーエン兄弟はルーウィン・デイヴィスのモデルとなったデイヴ・ヴァン・ロンクへのリスペクトと思しき、小さな希望を用意する。
それはルーウィン自身が気付くことのない「継承」の萌芽であり、退屈な反復が唯一意味を持ちうる螺旋型の上昇であり、今なお続く系譜の誕生の瞬間である。
なにかを語り、歌い、描き、踊り、書き続ける限り、それらがたとえ断絶の危惧に晒されたとしても、引き継がれる意思があり、積み重ねられる表現があり、それこそが生きる技藝としての藝術であり、人間の最も優れた能力なのだと、改めて確信するに至る。

もっともっと語り尽くしたい細部(特にオスカー・アイザックキャリー・マリガンの演技、会話の妙たるや!)があり、そこを掘り下げることこそが本作のきもなのだが、それは鑑賞者のみの愉しみとしてとっておくべきだろう。
ここまで他人事とは思えない映画もなかなかなく、今のタイミングで見た『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』は、生涯心に留めておかなければと心底思う。

『はちみつ色のユン』と『隣る人』

『はちみつ色のユン』は、時代や現実の要請によって、血の繋がった両親との生活を断絶された子供が、血の繋がりがないはずの他人と真の親子になってゆく過程を描いた物語である。
親子とはなんなのか、親と子という関係性を定義するものはなんなのか、そんな本質に鮮やかに迫っていく。
朝鮮戦争以後、とりわけ60〜70年代にかけての韓国では、約20万人の孤児が国際養子となった。その多くは戦後韓国人女性とアメリカ兵との間にできた子供であり、儒教の伝統根深い韓国では、離婚した、あるいは未婚の母親に親権はなく、彼女たちに残された唯一の選択は私生児を国外に棄てることだけだった。
彼女たちが置かれた境遇は現在のルワンダの女性たちのそれと似ている。これはかつてあった歴史の一事実というだけではなく、今もなお起こり続けている事態であり、そのことに恥辱を覚えなければならないだろう。

本作の主人公ユンもまた、そうした悲劇的な現実によって、否応無く故郷を喪った少年の一人である。
雪深い韓国の孤児院で、行列をなして「アリラン」を歌う子供たちの姿をバンド・デシネ的なCGアニメーションで描いた場面から始まり、一人の中年男性が生まれ故郷であるはずの韓国において、韓国人の視線に違和感と恐怖を覚えるという誠実な感情を吐露する場面が続く。
一人の人間の過去がアニメーションによって、現在が実写映像によって、前者が韓国人でありながらベルギーの過程で育っている自分のアイデンティティの不在、その寄る辺なさに悩み、それでも今の自分を受け入れようとする少年の姿を、後者が大人になり、自らの出生のルーツを探ることで幼い頃から自分を苛ませ続けてきたアイデンティティの問題と決別するために故郷を訪れたユンの姿をそれぞれ描き、それらが交錯してゆく。
少年時代のユンの物語には実際の8ミリフィルムが使われており、この物語は紛れもない現実なのだと密かに訴えかけてくる。と同時に、このアニメーションは、ユンの過去の記憶を補完し表現しうるものだと気付かされる。

ユンは白人社会の中で、はちみつ色の肌を持つアジア人ではあるが、ステレオタイプな疎外者ではない。
ユンの兄弟姉妹は彼のことを受け入れているし、彼自身普通の白人以上に悪ガキとして生活を楽しんでいる。
時折養母や他人の無神経な一言に傷付けられはするが、むしろ他の韓国人養子との距離を取り、交流を避けている。
そんな彼はアジア人としてのルーツを日本に、日本文化に求めることになる。日本文化にかぶれ、そうすることで韓国人としての記憶を消し去ろうとしているとすら言えるような振る舞いを見せるのだ。

彼と祖国との繋がりは空想の中にいる「実母」だけだ。現実逃避に絵を描き続けるユンは、朧げな記憶の中にいる「実母」を描くが、いつになってもその顔が描かれることはない。いくら求めても「実母」の記憶からは断絶されてしまっている。
思春期になり、自らのアイデンティティの揺らぎに不安を覚えるようになったユンは、感情のコントロールが苦手でヒステリックですらある「養母」と口論になり、家を出ていくが、不慣れな一人暮らしの末に、生死を彷徨う病に倒れてしまう。
病床のユンは、「養母」から、彼女の最初の子が死産であったこと、ユンがその子の生まれ変わりだと信じていることを告げられる。
幼い頃から常に差別と侮蔑の視線には気付いていたものの意図的に無視し続けてきた自分、白人社会の中では得意な「はちみつ色の肌」を持つ自分、不安定な自己の存在をなんとか保つためにしてきたイタズラゆえに「腐ったリンゴ」と罵られてきた自分、そんな自分を心から愛し、受け入れてくれる存在は最初から「ここ」にいたのだ。自分の居場所は、ずっとここに。

「養母」は社会的に産み出された可哀想なアジア人をファッション感覚で引き取ったのではない。
本気でユンの「母」になろうとしたのだ。
『空想の母は愛せない。ただ夢見るだけです。私には母がいます。目の前にいます。』
と静かに語るユン。その言葉には「養母」に対する切実な信頼と愛情と感謝が横溢している。

しかし、本作の白眉はそこで留まらないところにある。
過去のユンのエピソードをそれだけで物語的、映画的にストレートに感動しうるものではあるが、そこには多少のきな臭さが残る。
結局これは救われた者の話でしかない。それ以外の「汚辱に塗れた人々」の話が無ければ、少なくともそれを見る側が認知しうる余地が無ければ、この映画の前提にある問題があたかも今は完全に解決されたものとして見えてしまう。
さきほど類似した問題としてルワンダの例を出したが、ドン・チードルが主演した『ホテル・ルワンダ』は非常に優れた映画ではありつつも、このきな臭さを残したまま映画を終わらせてしまっていた。

大人になり、自らのルーツを改めて探るユンは韓国で絶望的な事実を知らされる。彼には韓国で生きていたという記録がほとんど残っていないのだ。
拾われた時の僅かな証言が残存しているだけで、彼がどこで、いつ、誰の子として生まれたのか、それを証明する根拠がどこにも残されていない。
これはなまなかな事態ではない。
人は人の子として産まれ、人の子として育ち、人の子を産む、そんな当たり前の、しかし他の何よりも尊重されるべき制度を担保する準拠がない。
さらに、ユンと同じように、国際養子というアイデンティティの不在の問題を抱える韓国人の子供たちで、ユンのような幸福な結論に至ることができず、悲劇的な死を迎えた子供たちは数え切れないほどいるのだ。そんな辛く酷い、地獄というも愚かな現実が常に「そこ」にある、そこまで描くことによって、『はちみつ色のユン』は類稀なる誠実さを湛えた映画になっているのである。
彼ら彼女らにとっての「母」はどこにいたのだろうか?

『隣る人』
本作は、ウニー・ルコントの傑作『冬の小鳥』を想起させるドキュメンタリーである。
なんらかの事情によって家族と暮らすことができなくなってしまった子供が、児童養護施設で血の繋がりのない大人に育てられ、世界の不条理な現実に幾度とさらされることによって、どうしようもなく無力な自分は誰かに頼ることなしには生きることができないという事実に気付かされ、それを認識することによって子供は大人になる。
そうした物語を『冬の小鳥』は子供の視点から描いたが、本作は子供と大人、双方の視点を組み込んでいく。

階層ごとに色の異なる幻想的で美しい夕焼け空を映したオープニングシーンに、その時間帯ならばどの家庭にも響くであろう包丁と俎板の音が重なり、慌ただしい夕食の始まりを告げる。
本作は円環構造になっており、ラストは、子供たちがまだ起きていない早朝、彼ら彼女らのためにつくる朝食の調理音で幕が閉じる。
つまりこれは、この映画内で描かれるような出来事が、「光の子どもの家」という児童養護施設では、これまでもこれからも起き続けているのであり、これはいつもと変わらぬあの一日だということを示唆している。
そして同時に、そんないつもの、ありきたりな、平々凡々とした一日には、これほどの苦悩と葛藤と悲哀と歓喜と感涙が詰まっているのだということを意識させられる。

物語の軸となる登場人物は、勝気で元気、時に見る者をギョッとさせるような暴言まで吐く「むっちゃん」と、おっとりした性格の「マリナ」、そして二人の担当責任者である「マリコ」である。
二人の子供たちは、時に喧嘩し、時にじゃれ合い、大好きな「マリコ」を独占しようとする。
三人がいる空間には常に多幸感が満ち満ちていて、この養護施設が子供たちにとって幸福な空間であることがありありと伝わってくる。
監督の刀川和也は、「光の子どもの家」の共同生活の様子に加え、登校の際の子供たちのちょっとしたちょっかいの出し合い、パンツを恥ずかしげもなく見せながら床に寝転ぶ少女、絵本を読み聞かせてもらっている間に眠気に誘われウトウトとしてしまっている表情、嬉しそうに歯磨きをする姿といった何気ない日常の子供たちの挙措、発言をひとつずつ丁寧に積み重ねていくことで、説明的なテロップやナレーション、感情を誘導する音楽などまるで使わずに、「光の子どもの家」の世界を立ち上がらせていく。

マスコミが喧しく問題視する家族間の不和、実親と一緒に暮らすことができず養護施設にいる子供たちといった切迫した問題の別の側面をこそ、本作は見事に映し出す。
かつてのトラウマから実母に対しての距離感がわからず戸惑う娘、実の親子であるはずなのに娘とどう関係を築けばいいかわからず悩む母。
娘は母を拒絶し、母は娘への接し方がわからずショック症状を起こしてしまう。
どちらもが共に暮らしたいという思いを抱えながらそれが叶うことはない。
そうした場合、社会は母親を悪者に仕立て上げ、あるはずもない「母親の理想像」を全ての母親に強いる。今の時代、女性が一人で子どもを育てることの困難さは考えられることはない。
その上、母と娘が一緒に暮らすことを無条件でよきこととして、養護施設にいる子供たちに条件反射的に同情を覚える。
そんな偏見と侮蔑に満ちた人々の無意識を、本作は穏やかに、しかし痛烈に批判する。

本作は作り手が被写体と信頼関係を構築した上で撮影を行う、という古典的なドキュメンタリーの作法によって獲得し得た映像により、児童養護施設の重要性、つまり、子どもには血の繋がりとは関係なしに、ただそばにいてくれる人、自分の存在を常に肯定し安心感を与えてくれる人、「隣る人」がいなくてはならないということを鮮明に浮かび上がらせる。

むっちゃんとマリナが、『ママもパパもいないんだよ!』と咽びながらマリコに我先にとしがみつこうとする様に(この場面は次第に二人が相手より自分の方がマリコのことが好きであることを証明することが目的化してしまい、泣きと笑いが相互浸透してゆくのが面白い)、ある少女が施設内での責任者が変わる際に、元の責任者に抱きついて離れようとしない様子を見たむっちゃんが、その日の夜、ノートに何度も何度も、自分に言い聞かせるように、いつか自分の「ママ」もいなくなってしまうのではないかという恐れを払拭するかのように、「大好き」と書き続ける様に、マリコがいない夜、マリコがいつも寝ている布団に嬉しさと悲しさを滲ませながら潜り込むむっちゃんの様に、むっちゃんの10歳の誕生日に思わず涙を流すマリコの様に、その手前で気の抜けた表情を見せるマリナの様に、心打たれない人がいるだろうか。そこに真の親子の愛情を感じないことがあるだろうか。

本作が偉いのは、「光の子どもの家」が抱える大人の事情、矛盾までもひっそりと忍ばせているからである。
少人数制の擬似家族を構築し、子供たちに幸福な家庭を提供しているとはいえ、施設は施設。どんなに時間をかけ、苦難と歓びを共有し、相思相愛の関係を築いたとしても、「大人の事情」により離れ離れにならなければならない日がいつかは来てしまう。
「光の子どもの家」という良心的な施設でさえ、とどのつまり「施設」でしかないというどうすることもできない現実と、それでもこの「施設」は子供たちにとってかけがえのない、必要不可欠なものであるという事実が両方提示されるがゆえに、見る者は油断ができない。
大勢の人が親身になって子供たちに関わって、ようやく確立しえた子供たちの居場所さえも、「大人の事情」によって一夜にして無くなり、関係性は瓦解してしまう。
そんな「光の子どもの家」の思想的支柱を揺るがすような場面すら描かれるあたり、作り手の冷徹な視座が生温い同情や感傷を立脚点にしていないことがわかる。

誰かにとって誰かは「隣る人」になりうる。そこにはなんの制約もない。
「与える」でも「育てる」でもなく、「隣る」。
当たり前のように存在し、いちいちその存在を意識することもない。ただ隣にいるだけで安心感と幸福を感じることのできる存在こそが「隣る人」であり、この存在なくして子どもは大人への一歩を踏み出すことはできない。
今まで忘れていた自分にとっての「隣る人」の存在に想いを巡らせる、本作はそんな豊穣な映画体験を可能にしてくれるだろう。

『プリズナーズ』

羊たちの沈黙』を超える云々、『セブン』を超えた云々、日本の映画宣伝はミステリーの傑作を打ち出す際にそんな惹句をよく使う。
もちろんこの二本が映画界に与えた衝撃、影響を軽んじるつもりはない。今見ても全く色褪せることなく不穏な、不謹慎な輝きをはなつ映画なのは間違いない。
しかし、どちらももう20年近く前の作品なのだ。
それからミステリーというジャンルが停滞していたかと言えば全くそんなことはない。

クリント・イーストウッドは老獪な手腕で『チェンジリング』を撮っているし、自身のキャリアの停滞を打破してみせたロマン・ポランスキーの『ゴーストライター』、スウェーデンの新鋭トーマス・アルフレッドソンジョン・ル・カレの原作を見事に映像化した『裏切りのサーカス』。
韓国映画では、本作で世界中の映画ファンにその存在を知らしめたポン・ジュノの『殺人の追憶』があり、韓国血縁社会の淀んだ闇を描いた『黒く濁る村』があり、韓国残酷陰惨映画路線の極北『チェイサー』の記憶も新しい。
低予算映画で言えば、デヴィッド・ボウイの息子ダンカン・ジョーンズのデビュー作『月に囚われた男』もアイデアと工夫に満ちた快作だった。
そして『プリズナーズ』もまた、そうした作品群に勝るとも劣らない傑出した作品である。

プリズナーズ』は神への信仰を巡る物語である、とひとまずはそう言えるかもしれない。
数多のアメリカ映画がそうであるように、本作もキリスト教的な暗喩、象徴に溢れている。
祈祷文の引用で始まるオープニングからしてその気配は濃厚であるし、蛇(悪魔の化身の象徴)が邪悪なものとして描かれ、敬虔なキリスト教信者の主人公の名前がケラー(貯蔵庫、地下室といった意味)であることは、彼が聖書に記されている終末論を信奉し、いつ来るともわからない終末に備えていることを暗示しているのだし ー自宅の地下室にサバイバル用品や大量の食料を買い溜め、息子には「いつなにが起きてもいいように備えよ」と進言するのだから疑いようもない ー、主人公と対峙する刑事の名前はロキ(北欧神話における悪戯好きの神、端的に言えば異教の神)であり、極めつけは、「これは神に対する戦いだ。人の信仰心を失わせ、悪魔にさせるというね。」といった台詞まで出てくるのだから、キリスト教的解読の方向に傾くのも致し方ないのかもしれない。

しかし、そうした宗教的理解の枠に押し込めて本作を解説することは、表面上の物語の裏に隠されたメッセージを理解する上では役立つのかもしれないが、この種のアメリカ映画を語る際には繰り返される理論で食傷であるし、息苦しささえ感じる。
より突っ込んた物言いをするのならば、キリスト教的解釈 ー そしてそれが導き出す一つの正解 ー に埋没するあまり、表面上の物語で提示される問いを矮小化させてしまっているのではないか。
キリスト教世界の解読法を得々と語り、特定の宗教を信仰する人が少ない日本人には理解しえない、秘匿されたテーマが裏側に潜んでいるのだと喝破してみせる態度にはもううんざりなのだ。

主人公のドーヴァー(ヒュー・ジャックマン)は誘拐された娘を救出するためには手段を厭わない、どころか進んで悪事に手を染める。
娘を誘拐したと思しき容疑者を監禁し、拷問によって口を割らせようとするのだ。
「家族を守るため」というそれ自体は批判される余地などないはずの大義名分を掲げることで、自らの言動に自分勝手な根拠を与え、大手を振るって無茶苦茶な捜査を続けるドーヴァーには、そのあまりの剛直さにげんなりさせられもする。
それに対してロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)は、その風貌とは裏腹に、冷徹に事件の全貌を炙り出そうとする。

単純に思えたはずの事件だったのに、一つ一つ薄皮を剥いでいくと、真相に近付くどころか、闇が深まり、拡がり、ドス黒い悪意が姿を見せ始める。
真相を露わにするはずのピースはところどころに散逸し、一つが枠に収まったかと思うと、別のピースは零れ落ちてしまう。
幾重にも敷き詰められた伏線は、トリッキーなどんでん返しのために用意されたものではなく、それ自身が意味を持ち、物語を駆動させる要素として機能する、あるいは画面には映っているはずなのに、見えていないものとして存在している。

ヒュー・ジャックマンジェイク・ギレンホールポール・ダノメリッサ・レオヴィオラ・デイヴィスといった錚々たる演技派を纏めあげ、小説であればおそらくは凡庸ですらあるかもしれないアーロン・グジコウスキの脚本を緻密な演出によって見事に映像化してみせたドゥニ・ヴィルヌーブ監督の手腕には、最大級の賛辞が贈られるべきであろう。

しかし、本作でなにより素晴らしいのは、恐怖、不安、焦慮、不吉、緊張感といったミステリー/ホラー/サスペンス(この三つのジャンルはほとんど区分が不可能なぐらいお互いに滲みあい、どのジャンル一つを構成する上でも、他二つのジャンルの要素が必要であると個人的には思う。そして本作もまた、この三つのジャンルを縦横無尽に横断しているのだ。)を語る上で不可欠な種々の感情を、ほんの僅かな動きやピントの調整によって画面に定着させ、観客に想起させうる撮影監督ロジャー・ディーキンスの類稀な撮影技術とセンスである。

彼のカメラがジリジリと木の幹ににじり寄るだけで、画面には禍々しさが横溢するのだ。
彼のカメラがカラカラと動くおもちゃの車にピントを合わせるだけで、画面に不吉な匂いが充満するのだ。
彼のカメラがスーッと家をズームインするだけで、その後画面に起こりうる不穏な出来事を予期させるのだ。
なにを酔狂なことを、と思うかもしれないが、ロジャー・ディーキンスの画面は観客の感情を容易に操作してみせる。

少しだけロジャー・ディーキンスの話を。
彼は、『ノーカントリー』、『トゥルー・グリット』といった一連のコーエン兄弟の作品や、『レボリューショナリー・ロード』、『007/スカイフォール』といったサム・メンデス作品、フランク・ダラボンの『ショーシャンクの空に』、さらには、3DCGアニメの映像クオリティをワンランク上のものにした『ヒックとドラゴン』にも撮影アドバイザーとして関わっている。

現存する撮影監督として、既に評価を確実なものにしているロジャー・ディーキンスだが、アカデミー賞の受賞は一度もない。
本作『プリズナーズ』でも11度目のアカデミー賞撮影賞にノミネートされているが、今年は『ゼロ・グラビティ』のエマニュエル・ルベツキが受賞。『ゼロ・グラビティ』の圧倒的な超絶技巧に後塵を拝した。さすがに相手が悪過ぎて、同情もへったくれもない。

ロジャー・ディーキンスの撮影の凄みを知るには『007/スカイフォール』が最適だ。
スカイフォール』自体、007シリーズの一つの到達点ですらある ー それはたった一回限り許されるアクロバティックなものであるにせよ ー 優れた映画なのは間違いない。
元々舞台演出家で狂信的なまでにシンメトリックな画面構成に拘るサム・メンデス監督の意向ももちろん無視できない。
それでもなお、撮影がロジャー・ディーキンスでなければ、『スカイフォール』は作品自体が抱える危ういバランスを渡り切ることはできなかったのではないか。

スカイフォール』は物語が停滞に陥るまさにその瞬間に映像が輝きを放ち出し、映像が力を失うまさにその瞬間に物語が躍動感を持って駆動し始める。
物語と映像がお互いの限界をぶつけ合い、犇き合い、徐々に鋭さを増してゆく。
上海のシークエンスでは、透明度の高い青を基調として画面を据え、光を自在にに操ることでグラフィカルな格闘シーンを写し出す。二つの黒い影が織り成す活劇の荒唐無稽なカリカチュアぶりに心を鷲掴みにされる。
マカオのシークエンスでは、闇の中で妖しげに異彩を放つイルミネーションを捉え、007的なエロティシズムと暴力の世界を提示してみせる。
007の故郷スカイフォールのシークエンスでは、それまでの人工的な画面構成から一転、山に囲まれ荒涼とした湿地帯とそれを覆う曇天を静謐な移動撮影で捉え、際限の無い広さとそれゆえの逼迫感を感じさせる。
そして、これらの撮影に象徴されるもの全てが物語のラストに向けて収斂されてゆく。
ロジャー・ディーキンスが創り上げ、切り取った007の世界は、何度でもその世界に埋没し、陶酔してしまいたい気分にさせる、極上のドラッグ映像なのだ。

プリズナーズ』に戻ろう。
それまでいかなる要請にも動じず、絶えず緊張感を孕みながら静謐なタッチでこの世界に蠢く恐怖、狂気、禍々しさを捉え続けてきたロジャー・ディーキンスの撮影が、ゆくりなく躍動し出すのがラストのカーアクションである。
テールランプが揺れ、掠れ、霞み、煌き、蠢き、点が線になり、不意に線が途切れ、幻惑的な美しさに彩られた画面に、大粒の雨がーそれはほとんど雨弾とでも呼びたいほどのーが暴力的に叩きつけられ、この途方もなく無謀な救出劇を阻む。
ヒーローの誕生にはいつだって障害はつきものであり、それゆえこの場面は本作で最も象徴的な、寓話的な意味を帯びている。
そう、ここで観客は、今まで徹底してリアリスティックに積み上げられてきた物語が急に幻想世界へ、神話世界へと転化してゆく経路を辿っていくかのような感覚に陥るのだ。

同じような経験をつい最近したことがある。それはコーエン兄弟の『トゥルー・グリット』のラスト、主人公コグバーンが死に瀕する少女を救うために荒涼とした大地を駆け抜けるシーンだ。
このシーンも思わず溜息が零れ落ちるほど観客を魅了し、その神秘的な美しさに当惑すら誘う。
もちろんこのシーンも、ロジャー・ディーキンスによる仕事である、と並べ立てるのは蛇足以外のなにものでもないだろう。

プリズナーズ』の物語としての面白さはご覧になっていただければわかるので、内容に踏み込み過ぎることはしない。
ロジャー・ディーキンスという傑出した才能が創り出す「夜と雨」の世界を眺める、それだけでも至福の映画体験になることは断言しておきたい。

『ザ・フューチャー』と『ばしゃ馬さんとビッグマウス』〜映画における「35歳問題」〜

映画における「35歳問題」は非常に根深い。
この話をするためには、まずその前提となるティーンの問題を避けて通れないのだ。
映画には、ジョン・ヒューズの一連の作品を嚆矢とするアメリカ学園モノというジャンルがある。
アメリカの高校生は、ティーンという多感な時期に雑多な人々が跋扈する学校に押し込められ、その中で明確な格付けをされる。
基本的には受験による選別ではなく、その地域ごとの高校に進学することを余儀無くされるアメリカでは、この格付けが高校生活の明暗をくっきりとわけてしまうのだ。
この格付けが残酷なのは、親の経済力まで如実に反映されてしまうからだ。個々人には、それも親の財力に頼らざるを得ないティーンにはどうすることもできない格差が存在し、彼ら彼女らを雁字搦めにする。
この学内ヒエラルキースクールカーストー映画『桐島、部活やめるってよ』の批評において、無造作に乱用され、もはや陳腐な言葉に響いてしまうかもしれないがーを生み出し、各々のカーストには途方もない断絶がある。
そしてその断絶が深ければ深いほど、それを飛び越えたカースト間の交流や、下位カーストからの上位カーストへの反抗が物語的カタルシスを生み出すのである。
前者であれば『ブレックファスト・クラブ』、後者であれば『アニマルハウス』がいい例だろう。
上質のアメリカ学園モノがどの時代においても輝きを失わず、鮮烈に見る者に響くのは、酸いも甘いもすべてひっくるめて「ティーン」を描いているからに他ならない。
もちろんそこには「青春」が否応無く関わっており、「青春」をどう捉え、描くかは「ティーン」を描く上での至上命題と言っても過言ではないだろうが、ここでその問題に足を踏み込むと、話があまりに膨らみ過ぎてしまうので、今回は省くことにする。
今年は『クロニクル』と『ウォールフラワー』という両極端な青春映画の傑作があったので、青春映画についてはいつかまとまった文章を書くことにしよう。

ティーン」とはなにか?
映画における「ティーン」を定義するとすればそれは、「なにものでもない者が、なにものかになるために、今いる世界から一歩を踏み出すまでの準備期間」、あるいは、「自らがなにものでもない、という現実を受け入れ、なにものかになるために自らを見つめ直す期間」であろう。
ここで強調したいのは「ティーン」は十代に限らない、ということだ。
たまたま十代が、この「ティーン」問題を抱えることが多いだけのことで、それはいくつになっても人の自意識に付き纏って離れない。
学内ヒエラルキーティーンの葛藤と苦悩を描いた映画を見て、「あぁ、自分の学生時代もこんな感じだったなぁ」と追懐するだけで終ればどんなに気が楽になるだろうと常々思う。
そこで描かれる問題は今もなお自分が抱えている問題であり、いつまでこの憎悪と愁訴と鬱屈を抱え込んだまま生きていかなければならないのだろうかと絶望を感じる。

ティーン」に特徴的なのは、無根拠な全能感とそれと表裏一体の他者、世界への嫌悪と絶望である。
自分はまだなにものにでもなれるという思い込みは、世界のカラクリと折り合いをつけて「うまく」生きるだけの無能な他者への嫌悪となぜ世界はこんな自分を受け入れてくれないのだという絶望に転化し、所詮世界はこうなっているという自堕落な諦念と自らの才能の無さへの呪詛に成り果てる。
ティーン」にとって「世界」とは自分が生きるこの半径3メートルの世界であり、そこから逃げ出す術を知らない。
そこから一歩踏み出せば、どれだけ多くのことが可能になるのかということが考えられない。
自分がこうなりたい思う理想像はある。それに賭ける熱意もある。しかし、そこに至るまでの経路はたった一つの道しかないという視野狭窄に陥ってしまうので、その道から外れた時になにをしたらいいかわからない。
それにそういう社会や大人が作り上げた既存のレールに従うことへの幼い反抗心もある。
そうこうしている内に十代は終わり、不本意なまま社会に投げ出され、着たくもないスーツを着て、締めたくもないネクタイを締め、スッポリと社会の枠組みの中に収まってしまうのだ。
それでも本心では納得はできていないから、会社や家族のためにと自分を押し殺して勤勉に働く人間を軽蔑し、既存のレールから外れて自由気ままに生きる人間に羨望を抱きつつも、いつまでも若者気取りの能天気なやつらだと罵声を浴びせる。
そのどちらも否定することでしか、今の自分の不甲斐ない生を肯定することができない。
それこそが最も惨めでつまらなく、凡庸な生であることに気付くことがない。
自閉しきったままでどこにも出口が見当たらない。逃げることもできない。身動きがとれない。
結局のところそれは自意識とどう向き合うかの問題で、自意識をこじらせ続け、結論を先延ばしにした結果、そこにはもう35歳が口を開けて待ち構えているのだ。
「なにものかになれる」という淡い期待が肥大化することで産まれた「なにものにでもなれる」という幼児的な全能感が、他者への羨望を侮蔑と憎悪に変え、自らの出自を怨むことで、今の惨めな生に無理矢理根拠を与えようとする。
その醜くぶよぶよとした自意識を超克し、「なにものでもない」自分を、その残酷だが当たり前の現実を受け入れることで、人は「ティーン」から脱却できるのだ。
とすればこの「ティーン」は年齢によって区分されるべきなにかではない。

やっと本題に入ることができる。
映画における「35歳問題」とはなにか、ということである。
前述したように、「35歳問題」は「ティーン」が抱える問題の延長線上にある。
自意識を拗らせ続けて気付いたら「35歳」になってしまった!
十代や二十代だったら、「ティーン」が抱える問題に悩み、苦しみ、日常を憂いても、まだ先がある。いつかそこから脱却し煌めく未来へ飛躍することができると信じることができる。
しかし、35歳を迎えた人間にとってこの自意識の拗らせは、日々の逼迫感と閉塞感を増長させるだけだ。もしこのままの生活が続くなら、それは今までの惨めでつまらない生の持続でしかない。

こんな台詞を引用しよう。
「5年後にはもう40歳。40歳なんてほとんど50歳だ。その後の人生には微妙な変化しかない。」
映画における「35歳問題」のどん詰まり感を的確に言い表した見事な台詞である。
この台詞は、ミランダ・ジュライの『ザ・フューチャー』の中で印象的に使われ、この台詞を契機として物語が動き出す。
『ザ・フューチャー』の登場人物たる恋人のジェイソンとソフィーは4年間の同棲生活の中で、言い知れぬ退屈に駆られている。
このまま人生を終えてしまっていいのかという不安が二人を絶えず支配している。
怪我をした野良猫=パウパウを引き取ることにした二人は、パウパウを引き取るまでの30日間を人生で最後の猶予期間にして、自分のやりたいことをやりたいようにやろうと約束する。
前述した台詞の通り、35歳を境にして、人生には微妙な変化しか訪れない。これは二人にとって最も恐れていることだ。なんとかして現状を打破しない限り、自分の人生が無意味なものになってしまうという焦慮がじわじわと心を侵食してくる。
二人は、「理想の自分」になれずにいる「今の自分」に後悔と苛立ちを抱えており、その惨めで停滞した生から脱却するために、人生で最後の自由な時間を設けて、今まで理由をつけて諦めてきた「理想の自分」になるための行動を起こすのだ。
しかし、そんな簡単に決定的な変化を人生にもたらすことはできない。
退屈な仕事を辞め、自分のやりたいことに邁進しても、それを望んでいたはずなのに、なにもうまくいかない。
ソフィーはかつての親友たちが妊娠し、子供を産み、その子供が子供を産む「未来」を幻視し、幸福な自分の未来を描けないことを不安に思う。
ジェイソンはソフィーが自分の元から離れていく現実を受け入れられず、「過去」に取り憑かれてしまう。
現実と幻想の境界線が徐々に掠れ、破線になり、そのどちらでもあるがどちらでもない瞬間を描き出すマジックリアリズム的な演出には、ミランダ・ジュライの映画監督としての才覚が存分に発揮されている。
ソフィーは不定形な「未来」に不安を覚え、ジェイソンは幸福な「過去」に固執する。
二人は共に、「今」を、「今の現実」を受け入れることを恐れているのだ。
変化を望んでいたはずなのに、その変化ゆえに露呈されてしまった残酷な現実を見据えることができず、不安に慄いていた二人はパウパウのことを忘れ、死なせてしまう。
二人にとってパウパウは寄る辺ない日常の中で唯一絶対的な指針であった(パウパウはこの映画を神的な視点から眺め、物語る存在でもあるのだ!)。
30日後にはパウパウを引き取るという明確な目的があったから、その時まで自由を模索することができたのだ。
パウパウ=縋るべき絶対的な根拠を自らの過失で喪ってしまった二人は、自らの歩みで人生を進めるしかない。
ここで不意に、ソフィーがお気に入りのTシャツを身に纏い、摩訶不思議なダンスを踊るシーンが映される。そして、その滑稽で惨めな姿を見た人は、彼女をせせら笑う。
「自意識過剰なソフィーが外の世界が見えない状況で踊ることは、自分が何者でもないことを受け入れること」と監督のミランダ・ジュライ自身が言うように、大人になるためには、後悔と怨恨に塗れた「なりたい自分」幻想を捨て、「なにものでもない自分」を自覚しなければならない。
「35歳」はその自覚を可能にする最後の年齢なのだ!
なにものでもない自分を受け入れて、どうにかして他者と繋がろうとすることこそが、甘美でほろ苦い大人への成長であり、それがどんなに不器用でみっともなくても、他者との繋がりはそこからしか始まらない。
『ザ・フューチャー』は「ティーン」の問題に、肉体的社会的に大人になった後も悩み、苦しみ、もがき続けてきた人間が、「35歳」以後の人生の始め方を見つけるまでの、ささやかだが希望ある「未来」への一歩を踏み出すまでの映画なのである。

『さんかく』でその後の将来を期待された吉田恵輔監督の最新作『ばしゃ馬さんとビッグマウス』もまた、この「35歳問題」にがぶり四つで取り組んだ作品だ。

「35歳」という年齢はなにかを新しく始めるには遅過ぎて、なにかを諦めるには早過ぎる、微妙な年齢だ。
いつまでも今の凡庸で誰にでも代替可能な生活を続けていいのかと思い悩むが、今まで積み重ねてきたものをもろとも放棄するには、それらはあまりに重たく人生にのしかかってしまっている。
また、ひとたび手を放せば、たしかに別の生を享受できるとわかってはいるが、今の安寧すらも捨ててしまうには躊躇いがある。
信条として反復は恐れていないので何度でも書くが、十代から拗らせ続けて35歳になった人間の拗らせは生半可なものではなく、その袋小路から抜け出すことはほとんど不可能だ。
とっくに自分の才能の限界には気付いている。社会や他者との折り合いのつけ方も学んだ。たとえそれが屈辱を強いるものだとしても、自分に求められているイメージをあえて振る舞うこともできる。その上で、人生こんなもんだと気取った諦めをシニカルにしてみせることもお手の物だ。
そんな自分を心底嫌悪しているにもかかわらず、相変わらず他人を侮蔑し、調子のいい言葉で自分の今いるポジションを正当化する。
この人生は自分のものであったはずなのに、多くの選択肢があったはずなのに、いつのまにか進むべき道も、逃げ込む道すらも見失ってしまっている。
このままずるずると老いていくしかない人生を呪い、煩悶するが、今まで無造作に積み重ねてきたものが枷となり、そこから抜け出すことを邪魔するのだ。

本作の主人公馬渕は、脚本家になるために脚本を書き続けているが、それは昔のような無垢で希望に満ち溢れた「夢」とは程遠く、ヘロイン中毒者が滑稽なまでにヘロインに拘泥してしまうようなものだ。
彼女は自分が生きている意味を失いたくないから書き続けているだけであり、脚本家になるという彼女の「夢」はボロボロに傷付けられ、ほとんど骨組みしか残っていない。
それでもそれに縋らなければ、彼女は生きられない。なぜなら、それを放棄することは、今まで努力してきたこと全てが無意味なことだったと宣言するようなものだから。
彼女は幾度も挫折し(34歳になっても、彼女の脚本はたった一度も、一次選考すらも通過したことがないのだから!)、自分の才能の無さが頭にチラつきつつも、ただひたすら書き続けることでその考えを頭から追い出し、なんとか自分を保っている。
あんなに好きで脚本を書いていたはずなのに、誰にも認められず、その苦しみを共有できる人もいない。時間だけが過ぎて行き、自分だけ置いてけぼりにされた感覚に陥り、脚本を書くという絶対的な目的・指針のみがなんとか彼女を繋ぎ止めている。
しかし、もはや自分に書きたいことなどなく、一次選考を通過するために、監督やプロデューサーに認められるために、彼らが求めるものにおもねった凡庸な脚本を書くことしかできない。
歳を重ね、失敗しても「次がある」とは信じられなくなり、傾向と対策を信奉する教科書的な方法、脚本賞を受賞する確率が高そうな題材で脚本を書くが、それが認められるはずもない。
いつかその努力が報われ、豊穣な果実を実らせることを信じて「34歳」まで書き続けてきた彼女は、どんどん追い込まれていく。

自分よりも経験も熱意も乏しい後輩に映画の脚本の依頼が舞い込み、若いだけで無根拠な自信だけが取り柄の「ビッグマウス」に脚本のダメ出しをされ、やっとの思いで書いた脚本は無下な扱いをされ、脚本家として成功した昔の学校仲間に会うが相手は自分のことなど少しも覚えておらず、昔付き合っていた男に助けを求めるが自らの怠慢により呆れられ、実家に帰れば旧友の結婚式でおもしろくもない仮装をさせられ、「脚本を書いている」というだけで嫌味たらしく自分を持ち上げる友人には咄嗟に「映画の脚本を書いている」という嘘をついてしまう。

周囲の環境が、他人が、なにより自分自身が自分を追い詰めていく。
そんな彼女のどん詰まり感に心が痛む。ただ好きなことをし続けていたいだけなのに、なんでこんな惨めでみすぼらしい思いをしなければいけないのか。
「誰か!誰か、この私を救って!」
そんな彼女の悲痛な叫びを4分近い長回しで残酷に見せつける場面は、この映画の事実上のクライマックスと呼ぶべきシーンだろう。
酔っ払った馬渕さんは、元彼に自らの現状を吐露し、無様な姿で泣きじゃくる。
「夢を諦めるってこんなに難しいことなの?夢を持つのは簡単なのに、なんで諦めるのはこんなに辛いの?」
「夢を諦めるな。諦めなければいつか夢は叶う」と軽々しく言う人がいる。その言葉がどんなに辛辣で残酷な言葉になりうるのか一顧だにすることなく。
RHYMERTERの『ONCE AGAIN』の歌詞を引用する。

夢、別名呪いで胸が痛くて
目ぇ覚ませって正論、耳が痛くて
いい歳こいて、先行きは未確定

「夢」は人を縛り付ける「呪い」であり、いつまでも人を苦しめる。
あんなになりたかったはずなのに、やりたかったはずなのに、その「夢」こそが自分を傷付け、選択肢を無くし、人生を窮屈なものにしてしまう。
それでも、それがたとえ惨めでくだらなくて、他人の嘲笑を誘い、死ぬまで報われないものだとしても、それでも「夢」に賭けられるのならそれでいい。
しかし、大抵の人はそんな愚直に「夢」を追うことはできず、「夢」=「呪い」に苦しめられ、もっと色んな可能性があったはずなのに、もっと幸福な未来が待っていたはずなのに、と過去に拘泥してしまう。
馬渕の苦悩も葛藤も後悔も悲嘆も鬱屈も全部、他人事には思えない。
自意識を拗らせて、拗らせて、拗らせて、今だって苦しいのに、これが「34歳」まで続くのかと思うと、その途方もなさを思うと言葉に詰まる。

そんな馬渕を救うのは、傲岸不遜で無根拠な全能感丸出しの「ビッグマウス」天童だ。
自分で一つも脚本を書いたこともないのに他人の脚本に上から目線でダメ出しする天童を馬渕は嫌悪する。若さ故の愚かさを許容することができない
なぜなら天童は若き日の馬渕自身だからだ。
10年近くかかってやっと脱ぎ捨ててきたものを全部纏って自分の前に現れたその若者は、自分が突かれたくないところに土足であがりこんでくる。
そして気付くのだ、あの頃あんなに忌み嫌っていたつまらない大人になってしまった自分に。
しかし、そんな天童のみが、泥沼で足掻く馬渕を救い得る。
天童と向き合うことは自分自身と向き合うことであり、拗れきった自意識と向き合うことで、馬渕は自分が心底書きたいと思う脚本に取り組むことができるようになる。
怨恨と後悔に満ちた「夢」のためではなく、脚本家を志した時の原初的な衝動が彼女を突き動かす。
「34歳」の彼女ができる最後の抵抗だ。最後の「ONCE AGAIN」だ。
だが、だからといって誰もが勝者になれるわけではない。夥しいほどの敗者の、その死屍累々の先にしか勝者はおらず、そこに辿り着けるのはほんの僅かの人間だけだ。
出来上がった脚本は賞を受賞することはなく、彼女は敗者のまま「夢」を諦めることになる。結局、一度も勝者になることなく彼女の脚本家人生は終わってしまう。勝者の歓びも栄光も名誉もなにもなく、今まで書き続けてきた脚本が後世に遺ることもない。
結局全部無駄だったのか?
無意味な人生だったのか?
違う!断乎として。
彼女にとって、賞を取るか取らないか、勝者になるか敗者になるかは最早問題ではない。
映画『ロッキー』でシルヴェスター・スタローンは、なぜ負けるとわかっているにもかかわらずリングに立ち続けたのか。
それは自分がしみったれた負け犬じゃないことを証明するためだ。
なにものにもなれず、なにも成し遂げられず、このまま無意味なままで終わってしまうかもしれない自分の人生を肯定するために。
たとえそれが無様でかっこ悪くて、みっともなくて、なんの変化ももたらさないとしても、人生でたった一度きりでもいいからなにかを貫き通す。その姿は普遍的に人を感動させ、鼓舞し、燻り続けた魂に再び火を燈すのだ。

「35歳」になる手前、「34歳」で馬渕は「夢」を諦めることを選ぶ。しかし、そこに自堕落な諦念はまるでない。むしろ、映画のラストシーンで「夢」を諦めて田舎に帰る馬渕の姿は、どこまでも爽やかで、晴れ晴れとしていて、清々しい。
「夢」を持つことはそんなに難しいことじゃない。「夢」に向かって努力することもたいした問題ではない。しかし、「夢」を諦めることは辛いし難しい。その「夢」に真摯であればあるほどだ。
馬渕が「夢」を諦めた先に見える風景はなんとも美しい。それは彼女が「夢」を捨てたからではない。彼女は「夢」を託したのだ。
脚本家になるという「夢」を天童に託すことで彼女は「35歳」に向かう。
自分を縛り付ける「夢」の呪縛から解き放たれるためには、後ろに続く者たちのための踏み台になるしかない。自分が「夢」の主体にならなくてもいいのだと考えるだけで、ふっと肩の荷が下りるだろう。
それはオンボロで、すぐに壊れてしまうものかもしれないが、その踏み台なしでも大いなる飛躍はなされない。
その飛躍は自分が生きることが叶わなくなった世界でなされるかもしれない。しかし、それがなんだというのだろう。愉快ではないか。

『ばしゃ馬さんとビッグマウス』で描かれる馬渕さんの「夢を諦める」という選択は、現実に挫折し、夢を諦めるというニヒリスティックな現状追認ではありえない。
彼女はロッキーのように、自分の人生がしみったれた負け犬のそれじゃないことを証明してみせたのだから。
「35歳」になる直前、暴走しきって収まりのつかない自意識と真正面から対峙し、「夢」を諦めることで新たな一歩を踏み出したのだから。

『ヒミズ』ー苦々しくも誠実な希望



園子温監督最新作『ヒミズ』を観た。
どこから書けばいいのだろうか。何か落とし処を決めて書くわけではない。断片的にこの映画から想起されたことを書き連ねるだけになってしまうかもしれない。意図せざる結論に至ってしまうかもしれない。それでも、この映画は少なからぬエネルギーを消費してでも何かを語らせたいと思わせるー少なくとも僕にとってはー映画であった。

この映画に関しては既に数多くの方が、賞賛にしろ批判にしろ、犀利かつ明敏な文章を書いているので、今更何を書いたらいいのか戸惑う。語りはじめというものは常に困難なもので、いつもまずそこで躓いてしまう。この躓きを無くす為にとっかかりを設けてみようと思う。個人の信条として、“感想の批評”はできる限り避けてきた。なぜならそれは、“これこれを知らなければ語るなど烏滸がましい”“これこれの良さを(ダメさを)わからないなんて馬鹿だ”などといったくだらない、唾棄すべき脅迫にも似たものに帰結してしまうからだ。他人より優位に立ちたいという自意識に回収されてしまうからだ。しかしながら、自分とは異なる感想や批評はある種のとっかかりとしては最適とも言える。何故自分はこの批評・感想に納得できないのか、という素朴な疑問から自らの文章を始めることは往々にしてあることだ。決してそれが“だからあの人は、あの批評・感想は何もこの作品についてわかっちゃいない”というような見窄らしい高慢な自意識に陥らないように慎重に書かなければいけない。映画の善し悪し、面白い面白くないを決める基準は個人が決めればいいものであって、それに関してとやかく言う権利は誰にもない。

では、『ヒミズ』に関して最も批判に晒されるポイントはやはりあの震災後の風景を使用したことだろう。実際これに関しては観る前から多くの人が懸念していた事項であり、その一抹の不安が本編によって増幅され、(主に否定的なものとして)激烈な感情を引き起こす要因になってしまったのではないか。曰く、被災地を、被災者を、フィクションに、娯楽に物語的必然性もないままに取り込むことで彼らの悲惨を話題作りの為の宣伝材料に“利用”し、搾取の構図を生み出してしまっているのではないか、と。この言説自体は紛うことなく正しいことで、もしそうした搾取の構図を生み出してしまうのならそんなものはすぐにでも遺棄されてしかるべきものだ。しかし、と同時に、こうした言説はあの日以来さまざまな形で藝術を拘束してきたものでもある。搾取の構図から逃れようとするあまり、現実に対して誠実に向き合い、真っ当なメッセージをてらいなく伝えることを恐れてしまい、“あえて”を使わざるをえなくなる。この“あえて”が非常に厄介なもので、なかなかこれを拭い去ることはできない。なぜなら、声高な、ほとんど脅迫的なメッセージ性を言葉でもって語ることは藝術においては、とりわけ映像で多くを表現する映画という藝術においては、疎ましくも喧しくもあり、非常に鼻白むものだからである。言葉によるメッセージ性は忌避される。僕自身映画には基本的にはそうあってほしくない。そうしなくても映画は雄弁に語れると信じている。けれど、今は状況が違う。個人的には、あの震災以降映画には、特に劇映画にはそういった映画的表現・技巧の素晴らしさより、何よりまず、どんなに稚拙で不器用でも、藝術がこの圧倒的現実に対してどう抗えるかを謳い上げてくれるようなものであってほしいと思ってきた。そういう意味で『ヒミズ』は震災以降の藝術の在り方としてはむしろ真っ当な作品になっているのではないかと感じた。

搾取の構図とはどのようなものか。それは、たやすく代弁の言葉を語ること、安易に観客と被災者の同一化を促し感情的にさせることでカタルシスや救いを与えること、現実はこんなにも凄惨なのに何をしているんだといった半ば強迫的な説教をすること。それらは詰まるところ、直接的な被災者の気持ちを“理解”した気でいたり、“わかった”ふりをしてしまうことから生じる。被災者でない人間にとって、本質的に被災者の苦境・苦悩を理解することなどできない。できるはずがない。理解した気になってしまうと、そこで何かが解決してしまったかのように誤解してしまう。実際には何も解決などしていないのに。そういった安直な”理解“は被災者の the only onenessを破壊してしまい、結局自分の感情を気持ちよくする為の手段として”利用“したり、その気持ちよさを目的とした藝術を生み出すことに繋がってしまう。これこそ搾取と言わずになんと呼べばいいのだろうか。最大公約数的な誰もが消費しやすい、理解しやすいストーリーを紡ぐことに震災という題材を組み込み、“利用”すること。これこそが最も不誠実な藝術の在り方と言えるのではないか。

ヒミズ』はどうか。震災という題材と誠実に向き合って、決して搾取の構図に陥ることなく、“今”しか描かれ得ないことを描いているか。
この映画は“希望”を描いた話である。しかしそれは、非常に苦々しく、無根拠で惨たらしく、非道徳的で救いがなく、観ている側を無限の“わからなさ”に突き放す剥き出しの現実に、どうにかして抗いつつ、恥辱に塗れた生を生きていかなければならないという、ほとんど希望とは言い難い“希望”である。故にこの“希望”は誠実である。
物語は冒頭あの震災の光景から始まる。この映画を観ていて、途中から僕の頭に想起されたものは原作の古谷実版『ヒミズ』ではなく、34年という短くも凄惨な人生を自ら死を望むことで終わらせた天才的なドイツの劇作家兼詩人のハインリヒ・フォン・クライストが1810年に発表した短編小説『チリの地震』であった。この小説に関しては震災後多くの知識人が言及したこともあってその存在を知っている方も少なからずいると思う。たった40ページにも満たないこの小説。映画版『ヒミズ』はこの『チリの地震』を彷彿とさせる描写に満ちていた。19世紀に遠い異国の地で書かれた小説と21世紀に日本撮られた映画との不穏な共鳴。
以下の『チリの地震』に関する解釈は佐々木中の『アナレクタ3砕かれた大地に、ひとつの場処を』に収容されている「砕かれた大地に、ひとつの場処を」から多くを援用させていただきました。詳しく知りたい方はぜひこちらを参照してください。
では、『チリの地震』の説明に入る前に。根拠、あるいは理性とはドイツ語でGrund(グルント)と言い、これは英語で言うところのgroundにあたるものである。つまり、この大地こそが根拠であり、理由であり、理性を働かせる何か、である。グルントが地震によって揺り動かされるということは、世界の根拠が、世界を司る理性が揺らいだということであって、キリスト教的な根拠=大地が崩壊してしまうことを意味する。
『チリの地震』は冒頭、「チリ王国の首都サンチェゴで、何千という人間が落命した1647年のあの大地震のまさにその瞬間、さる犯罪のために告訴された、その名もジェローニモ・ルグェーラという一人の若いスペイン人が、監禁されていた牢獄の柱の下に立っていましもみずから首をくくろうとしていた。」と始まる。ジェローニモという若い男がジョゼフェという貴族の娘の家庭教師として彼女に接しているうちに、二人は次第に愛し合うようになる。ジョゼフェの父はそのことに激怒し、ジェローニモを解雇、ジョゼフェを修道院に無理矢理入れてしまう。それでも彼女を忘れられないジェローニモは、修道院に忍び込みジョゼフェを懐妊させてしまう。修道女の懐妊は当時としては大スキャンダルであり、ジェローニモは投獄され、ジョゼフェは斬首刑に処せられることになってしまう。しかし、死刑執行が行われようとしたまさにその時に地震が起き、ジェローニモは牢屋から逃げ出すことができた。ジョゼフェを探す彼の耳には「ジョゼフェの首が飛ばされるのを俺は見た!」といった言葉が聞こえ、彼は愕然としてしまう。ところがそのまま歩いていると、ジェローニモはジョゼフェと息子のフィリップとの再会を果たすことになる。地震により死刑台が破壊され、彼女は生き残ったのだ。つまりここでは、地震によって二人を抑圧し断絶を強いていた法も秩序も制度も、それを支える人々も消失してしまったのだ。
二人は友人であるフェルナンドとその妻エルヴィーレ、彼女の妹コンスタンツェ、息子のホアンと出会い、そこに周りの人々も加えてお互いに無償の助け合いをすることで、甘美でユートピア的な、美しい助け合いの共同体を生み出していく。地震によってこの世界の根拠が、罪や罰の根拠であるグラントが揺さぶられてしまった。それはつまり秩序が消失してしまうということ。逆に言えば、わたしたちを隔てる、区別する、差別する、格差をもたらす秩序もまた消失してしまったということであり、ゆえにそこにはある種のユートピア的な自然状態が、献身的な共同体感情が生じる。
そんな折、難を逃れたドミニコ会大司教代理が人々に向かって演説を始める。この地震、災厄はサンチャゴ市の道徳的頽廃によって生じた天罰であり、それをもたらしたのはジェローニモとジョゼフェである、と。ここで奇妙なことが起こる。
人のアイデンティティーは法によって保証される。法は根拠なしには存在しないが、同時に法自体が根拠でもある。であるとすると、地震によってすべての根拠が揺さぶられ、秩序もろとも崩壊してしまった今、何が起きるのか?それは誰が誰だかわからない、自己同一性=アイデンティティーの消失である。
「ここにいるぞ!」という糾弾の声があがるなか、ジェローニモに勘違いされたフェルナンドは民衆に命を狙われ、それに必死で応戦する。ジェローニモ自身も「ジェローニモは俺だ!殺すなら俺を殺せ!」と言って応戦する。そこでフェルナンドも「この人はジェローニモではない!私を助けようとしてくれているだけだ!」と機転を利かせる。
するとここで不意に読み手をぎょっとさせることがおこる。「こいつがジェローニモだ!俺にはわかる!なぜなら俺はジェローニモの父親なのだから!」という声とともに、一瞬のうちにジェローニモは棍棒によって殺されてしまう。本当にジェローニモの父親かどうかはわからない、わからないままにジェローニモは殺されてしまう。ここでクライストは、意図的にだろうが、何の説明もしていない。“わからなさ”を突きつける。
続いてジョゼフェに間違えられてコンスタンツェが殺され、その罪の意識に苛まれたコンスタンツェは民衆に身を投じ殺される。さらに、フィリイプとホアンのどちらかが殺される(この時点では明記されない)。結局、殺されたのはホアンで、フェルナンドとエルヴィーレは自らの子ではないフィリップを抱え、逃げていく。「自分の子のような気がする。」と言って。

たったこれだけの話だ。しかしここには、多くの思考を喚起される実に豊穣なモチーフがいくつも鏤められている。
大地=根拠たるグルントが崩壊することで法・制度・秩序も崩れ、自己同一性が消失する。故にユートピア的な共同体と凄惨な暴力が同時に発生する可能性が生じる。共同体というものは外部を排除することによって成り立つ為、秩序がない時には外部の排除に歯止めが効かなくなり、酸鼻な暴力が振るわれうる。これは必然ではないが表裏一体で常にその可能性は纏わり付く。
また、“自分が自分である”ということの根拠はどうしたって外部に求めるしかない。“自分は自分である”といくら騒いでも、それを根拠付けるものがない限りにおいては狂人の戯れ言にすぎない。故に外部にある根拠が揺さぶられると、誰が誰であるかわからなくなってしまう。それは“自分が自分である”ということを信じられなくなるということ。震災以前の自分と以降の自分が同じ人物であると信じられなくなること。震災以前と以降は完全に断絶していて、違う世界に住んでいるような感覚に陥るということ。
この世にある法が、道徳が、根拠が、あらゆる信仰がすべて根拠のないものになってしまいかねない。そういった事実が露呈した瞬間、甘美な助け合い精神・共同体が生じるが、しかしそこでは同時に恐るべき暴力の可能性も生じる。そこには無根拠で残虐で、非道徳で救いもない、剥き出しの現実がある。この現実を直視し、なおその事実にただただ屈従しニヒリズムに陥るのではなく、そこから新しい根拠を創らなければならない。それは創っては壊される、そんな終わりのない戦いではあるが、それに抵抗することが藝術の誠実の在り方のように思う。ここで言う藝術は決して通俗的な意味での藝術だけでなく、その射程は広い。圧倒的な破壊に対して何か新しい完璧なシステムが自動的に創出されることはありえない、そんなことは期待するべきではない、人の力を介在させなければならない、人間なめんなっ!!

ヒミズ』は『チリの地震』に似ている。
震災後全てを失ったのであろう夜野を含め住田ボート店周辺に段ボール暮らしをしている人々は、ユートピア的な共同生活を営んでいる。彼らは純粋に助け合い、表面上は震災のことを無きこととして、それ以前とは断絶された生活を平凡に送ることで、その痛みを忘れ去ろうとしている。しかしながら、そこには後の暴力の発露を予感させる嫌な描写も同時に差し込まれる。ただ誰にも迷惑をかけず、“普通”の大人になることを望む主人公の住田は常に既に“何か”に抑圧されている。それは両親や学校という震災以前と変わらぬ既存の共同体からの疎外故の抑圧でもあり、震災という背後にある可視化できない超越的なものからの抑圧でもある。住田は一貫して諦観している。死を恐れない。共同体の外部に対して(時に内部の人にさえ)は露悪的とも言える暴力性を露わにする。人物として非常に歪で、こちらの感情を彼に同一化させることは難しい。そこの人物造形こそがこの映画のキモであり白眉であるように思う。園子温監督は安易な感情移入を拒否し、被災者の気持ちを“代弁”し“理解”させることを避けようとしている。そこに潜む搾取の罠に嵌入していない。
映画の終盤である人物が「俺は誰なんだ!何者なんだ!俺はなにをしたらいいんだ!」と喚き散らす。これは当然住田自身の叫びでもある。自分が何者であるかわからない、自分がなにをすべきなのかもわからない、自分が他者に世界に必要とされているのかわからない、自分の存在意義が見出せない。そういったアイデンティティーの崩壊がここで示される。そしてそれは最悪な形での暴力の発露に繋がってしまう。
こうしたように、『チリの地震』で書かれたようなモチーフが『ヒミズ』でも描かれる。繰り返すと、地震による根拠の崩壊によって、外部に根拠を求めることができなくなったために自己のアイデンティティーを信じられなくなり、故にそこではユートピア的な美しい共同体感情・助け合い精神と酸鼻で凄惨な暴力とが同時に出現している。こうした状況下で住田は屈辱に塗れた生を生きている。彼は自らが引き起こしたある出来事をきっかけに“普通”の人生を諦め、残りの人生を“オマケ”人生と名付け、世界をこんなものにしてしまったなにか絶対的超越的な“悪”を排除することに腐心する。世界には自分を苛ませるなにかが存在し、今のこの痛痒は全てはそのなにかに責任があり、それを排除することで自分が自分であることを保証できると思っている。しかしながら、現実にはそんな“悪”など存在しない。もちろん住田個人にこうした状況の責任が局所化されるわけではないが、ここで住田は自らの変革を求めようとはしていない。赦し難い状況に対して憤り、何かを変容させようと奔走しても自己の変容が伴わなければそれは結局無為に終わってしまう。ここで大事になってくるのは、宮台真司の言葉を借りれば、ホームベース=感情的な安全を保障する場である。誰かが自分を必要としてくれている、自分の生を肯定してくれる、根拠無き今“自分が自分であること”を保証してくれる、そういった感情的な安全を保障してくれる場処・人がない限り、自己の変容は難しい。自己の変容へと踏み出す勇気を出すことができない。住田にはホームベースが完全に欠如している。いや、住田だけでなく劇中に出てくる人物はほとんどこのホームベースが欠如している。それはこの映画で唯一住田を救いうる人物として登場する茶沢にも当て嵌まり、彼女は住田への妄信的な、ほとんど狂気に近い信頼と言葉だけでなんとか自分を保っている。他者からの感情的保証はない。だからこそ映画のラストに茶沢から住田に語りかけられる言葉が途方も無く響くのではないか。茶沢の、“生きてもいいんだよ”というたったそれだけの言葉が住田を生に繋ぎ止める。しかしそれは、単純な生温い“生”の肯定などではなく、苦々しくも赦し難い現実を受け入れ、いかなそれが汚れてしまったものであっても、それでも恥辱に塗れた“生”を引き受ける、という呪詛の言葉であり、希望である。住田にとって茶沢はホームベースとなり、茶沢にとって住田もホームベースとなる。故に「住田、ガンバレ!ガンバレ!」といういかにもな、空疎に聞こえかねない言葉が胸に重々しく響き、繰り返されるその言葉とともに走り出す二人の行為それ自体に希望を見出さずにはいられない。ここで彼らは遂に自己の変革を希求するのだ。園監督は言葉が空疎なものに陥りかねないということには非常に自覚的で、それは映画の冒頭で教師が“よきこと”の称揚に熱弁を揮うこと、その行為自体への自己陶酔の気持ち悪さ、空疎さを描ききっていることからもわかるだろう。一片の言葉に人は時に当惑し、憤慨し、狂乱し、絶望し、裏切られ、それでも希求し、時に昂揚し、鼓舞され、救済され、そこに根拠を求めずにはいられない。信じずにはいられない。

ヒミズ』は前述したような、被災者のthe only onenessを消失させてしまう安直な“理解"や“代弁”でもってその感情を消費することで自分を気持ちよくするだけの手段として震災を利用するような作品にはなってないと思う。むしろ震災以降の藝術の在り方としては、個人的には非常に真っ当で誠実な姿勢を感じる。被災者の気持ちを利用するのではなく、震災によって根拠が揺さぶられてしまった後の人々と状況を誠実に真っ向から向き合って描き出すことで、そこにある種の普遍性が不意に生じる。住田の孤独や苦悩は少なからぬ人が抱えたことのあるものであろうし、震災はそういった可視化されず内在していたもの露呈させた。だとしたら『ヒミズ』が謳いあげたメッセージを無下にしてしまうことは僕にはできない。たしかに声高な、ほとんど脅迫的なメッセージ性はウザいし鼻白むものではあるけれど、それでも“あえて”の策を弄するよりもド直球でなにかを伝えなきゃいけない時がある。今の日本はまさにその時なのではないか。
まさか園子温監督作品からこんなにも愚直なまでにストレートなメッセージ性が提示されるとは思わなかった。彼もまた、震災によって断絶を強いられてしまったのかもしれない。だからこそ、2011年に、ここ日本で、園子温によって作られたことに、その時代性に意味があるような、つまり、圧倒的現実にただ屈するでも、死者や被災者を利用するでもなく、“今”語られるべきことを奇を衒うことなく語った、“今”作られるべき映画に『ヒミズ』はなっているように思う。

誰にとってもという作品ではもちろんないだろうし、嫌悪感を抱く人がいてもそれは否定できない。それでも個人的には非常に思考を喚起される素晴らしい映画であったし、なにより藝術の側からかの震災に対してどのように抗っていくかを示してくれた希有な作品であったので、ただひたすらに感激してしまった。

今年の映画、今年のうちに〜2011〜

早いもので2011年ももう終わろうとしているわけで、相も変わらず実家の炬燵で一日中ぬくぬくしていると、今年を振り返ってみたくなるもので、今年観た映画にことでも書いて今年の総括でもしてみることに。
映画の感想とかランキングを書くという行為の気恥ずかしさったらなんだろうと常々思う。というより、自分の好き嫌いを曝け出すことはある種の気恥ずかしさを感じずに書くことは僕にはできない。もっと言ってしまえば、何かについて書くという行為自体に気恥ずかしさを感じてしまう。故に今まで書いてきた諸々の内容とその文体はある一定の距離を保つことで、意地悪な言い方をすれば安全圏に安住することで、文章の内容や文体に対する批判を直接的に自分自身に向かうことがないように書いてきた。そうすることであの忌まわしい、最も悪しき意味でのポストモダン的なシニシズム、嘲りから自分を守ることに腐心してきた。もうやめだ。あの日以降、そうした空気はより強固なものになったように思える。人に嘲笑されたくない、突っ込まれたくない、いい人間だと思われたい、そんな自意識を捨てることから始めなければ。そろそろ本気で書くことに向き合わなければならないと痛く実感させられた、そんな一年だったので、その最後を締め括る文章にまず本腰入れて取り組んでみようと思う。だからと言って、学術的な小難しい文体だけを称揚し実践するというわけではなく、書く対象が要請する文体で書くことを目指したいと思う。うまくいかないのではないか、一貫したものではないので読みやすい文章にもならないのではないか、結局全てあの醜い自意識に回収されやしないか、そんな不安に駆られはするが、それでも書いてみることにする。そこで踏み留まることはもうしないと決めたのだから。“今日という日を再び生きながら、決して汝の精神があの重々しい言葉がかすめることがないように、そんなことをして何になる、という例の言葉が”というポール・ヴァレリー箴言を重々噛み締めつつ書かなければならない。

これはあくまでパーソナルな制約であり、それを普遍のこととして敷衍させてしまうことはこの文章の本意ではない(そもそも公開するかも今の時点では定かではない)し、そうした自分語りだけは避けたい。そうなることがないように書くつもりではあるけれども、もしそう感じさせ嫌な思いをさせてしまったとしたらそれはあくまで書き手の不備であり欠落です。今後の為にも是非忌憚ない批判していただけると幸いです。


僕は佐々木中という男にかぶれている。彼の思考の方策、哲学的思想、そしてその実践。その全てにかぶれている。
彼が上梓した『夜戦と永遠』を読んでからというもの、数多の本や映画、音楽などの一般に謂われる意味での藝術を享受し、日々の生活の営みを続けることで、殊更にこの書物の射程の広大さに気付かされ、改めて感嘆せざるを得ない。
『夜戦と永遠』は“書くことの偶然性・本質的な賭博性と勝っては負ける終わりなき戦いの話”を中心に据え、ラカンフーコーの晦渋な議論を精緻に読み解いていき、ルジャンドルを補助線に呼び入れることでまさに永遠の夜戦の時空としか呼びようのない場所と時を創出する。
佐々木中は雄弁であること、わからないことを恐れない。
周りの斜に構えた連中のせせら笑いなど気にしない。笑わせておけばいい。そんなものに右顧左眄させられる謂れはない。
とかく何かを語る際にはすべてを語ろうとする人がいる。自分は“知と情報”を所有していると思い込んで、所有していないと思い込んでいる人を嘲笑し罵倒し、“これこれを知らなければ語るなど烏滸がましい”“これこれをわからないなんて馬鹿だ”などという無為な脅迫を強いる。
そんなものは唾棄すべきだ、くだらない。そうした状況に抵抗しなければならない。
彼は“本を読んだ、読んでしまった以上、正しいと思ってしまった以上、その言葉にこそ導かれて生きる他はない”と述べた。この言葉を借りるならば、“映画を観てしまった以上、正しいと思ってしまった以上、その映画に導かれて生きる他ない。語る他ない”。故に、この文章を書くことに自分を導いてくれた映画をベストにした。そうしなければならなかった、の方が正確であろう。

2011年劇場で観た新作映画は115本。DVDで追っかけたのが5本。なのでその中から10本選びたいと思います。

10位 アジョシ

体脂肪3%!みたいな映画でした。1対多数のアクションに必然性与える、観てる側が納得できる演出をしてて目から鱗でした、あれは。ウォンビンかっけーってのとセロンちゃん不憫!守ってあげて!アジョシ!っていうのは言わずもがなで、個人的にはなによりマンシク兄弟の顔と殺され方が最高過ぎて素晴らし過ぎて、あいつらにまた会いてーよー!
韓国映画は役者がいい顔してる、いい顔した役者が出てる映画が多くて本当羨ましい!ハードコアでありながら間口を広げることは可能だと証明してみせたし、立派にこのジャンルに貢献してる偉い映画だと思います。日本映画でもこんだけのクオリティのアクション映画を年に一本は観たいですってことも込みでこの順位です。


9位 イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ

今年は積極的にドキュメンタリーを観にいって色々と打ちのめされたんですけど、自分が現代アートに感じていた胡散臭さ、胡乱さと“逆に”とかメタ的視点で語ることが孕む根本的な危うさを抉り出してて、当時はこの映画のことばっか考えてました。バンクシーはすごく聡明に冷徹に現代アートというシーンの問題を意識してて、しかもそれを全体として与件化して俯瞰的視点から見下ろした上で、処方箋を出すような態度は拒否してるのがこの映画の白眉かなと。この映画がある種シニカルに批判してることはそのままバンクシー自身に自己言及的に降り掛かるわけですから。どんだけ偉いんだよ!っていう。お前はちゃんと自分が感じたこと、正しいと思えることを語っているのか!?って主題はこの文章の意図にも通ずるものなので当然のベスト10入りです


8位 50/50

僕はジョセフ・ゴードン=レヴィットが出てるだけでその映画が80点増しになっちゃうぐらい彼が好きなんですよ。彼が出てるだけで何もかもが愛おしく想えてしまう。そんなわけでジョセフ・ゴードン=レヴィット映画はほとんど無条件で上位になっちゃいます。メタル・ヘッドと迷ったんですが、男同士の熱くなりすぎない友情描写の丁寧さととかく杜撰でステレオタイプな扱いをされがちな難病という題材にきちんと向き合ってて好感がもてたので。感情の発露までをじっくり丹念に描いてくれてるからあのシーンに至る必然性は納得できるし、そのカタルシスは半端ないことになってる。折に触れて観直したいと思える映画でした。アナ・ケンドリックもすっごい可愛かった!


7位 ソーシャル・ネットワーク

映画としての完成度の高さは今年観た映画の中でもズバ抜けて高い作品。デヴィッド・フィンチャーの映像美学の一つの到達点であると思うし、ただの会話劇がこんなにスリリングで緊迫した物語的高揚に昇華されるマジックが起きてしまっている。1つのシーンに織り込まれている情報量と重層的な意味が途方もなくて、何回観ても新しい発見があるし飽きがこない。観賞後の爽快な疲労感の心地よさもたまらない。ラストにみせるザッカーバーグのあの行為があまりに身につまされすぎて、初めて観た時はなかなか正気に戻れなくて、予想以上に生々しい痛みを刻み込まれてしまった。
タイトルとは裏腹に、本編は実際に“革命”起こすツールとなったFacebookそのものの話ではない。それにもかかわらず、この映画は紛うことなく“革命”の映画になっている。それは語ることの革命であり、なにも終わらないという勝っては負ける戦いの革命である。何度か観るうちにこうしたモチーフを見出すこともできるようになり、改めてこの作品の理論的に精緻に組み上げられた重層性を思い知らされる。しかしながらそれ故に、皮肉にも本来ならもっと上の順位だったはずのこの作品をこの順位に落ち着かせなければならない理由ができてしまった。それは後述する。


6位 ステイ・フレンズ

恋愛の一側面を描いた映画は大好きなのに、今までなかなか手が伸びなかったボーイ・ミーツ・ガールもの。このジャンルを避けてきたことを激しく後悔させられた、そんな意味で2011年一番の拾い物でした。カーアクションとかで、全然関係ない人の車とか破壊されてるの見ると、あれって保険とかおりるのかなぁ、あの車の持ち主はどう折り合いをつけるんだろう、とか考えてしまうタイプの人間なので、凡百のボーイ・ミーツ・ガールものは主人公のふたりさえよければ他の人物はどうでもいいものとして只の記号や背景に押し込めてしまう描き方がもやもやの原因だった。『ステイ・フレンズ』はその辺の描き込みに主人公にはなりえない人への愛が感じられて、心底感激しました。それでいて主演二人の魅力はちっとも減じてないどころか、むしろ増してるのは脚本と演出がしっかり練り込まれているから。アメリカ映画は本当に“今”を切り取るのが上手い映画が多くて、映画の時代性も感じれる、なによりフラッシュモブの多幸感がたまらない!


5位 冷たい熱帯魚

一切妥協のない圧倒的な残虐描写と性描写で描かれた世の中の不条理さと救いの無さ、それに迫力とリアルを吹き込む演者たちの演技と演出のキレ、テンポのあるストーリーテリング、音楽とSEの使い方のセンス、どれをとってもThe園子温映画。
ぬるま湯の日常をぬくぬくと生きている“普通”の人間の価値観や倫理観を破壊的に揺さぶり続けてくる二時間半。
今、現実に生きている世界とはこんなにも卑近で下衆で凄惨なもので、そうした世界の中で人は理不尽な苦痛に苛まされる。 劇中の言葉を借りればそれは「生きるってのはよぉ、痛いんだよぉ!!!」ってこと。
白眉はもちろんジャパニーズジョーカーでんでん。セリフも立ち振る舞いもぶっとんでて、これ一つでこの作品を体現してしまうようなインパクトのある悪。 同じぶっとんだ悪でもダークナイトのジョーカーみたいに自らの哲学に基づいた極めて知的で自己完結しきったカリスマ的な超越した悪じゃなくて、もっと普遍的に存在する下衆で卑劣な悪。 故に最も救い難き悪。
吹越満演じる社本は、自分というものを持たず、周りの人間にどんどん流されていく。結果として家族とすら向き合うことはなく、現実から目を背けて生きてきたフヌケ(現実に一番多いのはこういう中途半端な正義や倫理観、道徳を振りかざすような最も惨めで救い難き人間)が、村田という絶対的に振り切れた悪と出会うことで狂乱の異次元に否応なく引きずり込まれていく。ラストの怒濤の展開は賛否あるけど、無理矢理引き摺り込まれてしまった身としては何も言うことはありません。
こんなに笑えるとも思ってなくて、前評判のハードルの高さを軽々と超えてしまって、本当恐れ入りました。


4位 スーパー!

覆面ヒーローの自警行為に内在する変態性、狂気、自己矛盾を描いたら不意に普遍的なものが前景化してしまった。誰かを愛し愛されること、人から認められること、人生なんてそうした端から見たらなんでもないことといかに真摯に向き合えるか、積み重ねていけるかでいくらでも豊穣なものになりうるだろうし、それがないと途端にすべてがつまらなく無意味なものに思えてしまう。クリムゾンボルトが劇中でみせる気違いじみた自警行為を嘲笑することは僕にはできるはずもない。だって割り込みは、児童買春は、麻薬売買は、悪いもんは悪いじゃんかよ!!結果としてそれがどんなに惨たらしい、凄惨な結末を引き起こしてしまっても、世の中そういう風になっているなんて達観して安逸に過ごすことが正しいなんて思えない。この映画が偉いのは、だからといってクリムゾンボルトとボルティーを完全に周りから甘やかされた存在にしないことで、やっぱり彼らは行き過ぎた行為に対する代償を払わなきゃならない。それでもあの行為に至らなければならなかった、あの選択しかありえなかったからこそラストのあの“コマとコマの間を必死に生きてるのか?”というメッセージが実感をもって響くのだし、その誠実さに打ちのめされてしまう。虚からでた実ではなく、虚に潜む実に踏み込んで描くことで、普通なら物語の背景にされてしまう賭けに負ける者、無視され続ける者を嘲笑という名の呪詛の言葉をもって表舞台に引き摺り出すのではなく、慈愛に満ちた手(それは救いとは限らない)を差し伸べることで彼らに光をあてる。そんな優しい視点が作り手にはあると思えて仕方がない。
2011年のmy favoriteはエレン・ペイジのボルティーエレン・ペイジ大好き!


3位 緑子 MIDORI-KO

Twitter上でその存在を知って、なんにも情報入れずに観に行って、とんでもないアニメーションで、それから三日連続でUPLINKに通い詰めて、それでもまだまだ飽き足らない。それぐらい愛おしい映画になってしうほどにこの映画との出会いはまさにサッカーパンチであった。
アニメーションの快感、画が動くことの快感をこれだけストレートに表現できるのかと眩暈がするほど映像に酔いしれた。アニメーションにはまだこんなことができるのかとひたすらに感心した。黒坂圭太という男が鍛錬の果てに到達したものとはかくもグロテスクに美しいものであったのかとただただ感服した。
『緑子』の画面は一分の隙もなく蠢動し続ける。それだけで気持ちいい。なぜか。何度観てもわからない。そんなことを問うことすら野暮なことなのかもしれない。脳に直接訴えかけるような心地よさ。55分間最初から最後まで多幸感が横溢し、この映画でしか味わえない快感が存在するのだと思わせてしまう『緑子』の魔力を形容することは僕にはできない。



2位 サウダーヂ

観た後に世界が違って見えるということがある種の評価の基準になるとするならば、『サウダージ』は恰好の対象となると思う。非常に重層的に綿密に織り上げられてつくられた映画なので、どの要素を取り出すかによって色々なことを語ることができる映画ではあるが、いやそれ故にどこから話していいかわからない。もちろん大まかな物語をなぞることはできる。だが、そこから零れ落ちてしまうもの、大枠の物語には回収されないが故に不意に滲み出てしまうもの、そのひとつひとつをこそ嚥下すべきだと思う。そこを取り除いてしまってはこの映画のもつ種々の批判性の射程を矮小化するだけになってしまうから。
個人的な関心から一つ挙げるとするなら、それが純粋な無償の善意から要請されたものだとしても、薄っぺらなグローバリズムや安直なLove&Peaceが決してありえなかったはずの最悪な未来への引き金となりうることもある、というのは繋がることが“よきこと”としてやたらと顕揚され強制される今の時代においては一笑に付すことはできないはずである。
『サウダーヂ』のひとつひとつのシーンの面白さは実地の丹念な調査という“実”と作り手が付け加える“虚”とが微妙なバランスを保つことで成立している。そこでは実と虚とが不穏に共鳴している。
冒頭のラーメン屋のシーンからラストのワンカットまで、各々の登場人物たちはもはやありもしない理想化された“ここではないどこか”を希求するものの、それはつねにすでに失敗し挫折する。負け続ける者たちの映画だ。


1位 無言歌&鳳鳴ー中国の記憶

この二作品はコインの裏と表のように分ち難く結びついていて、どちらか一方を抜きにして順位付けすることができなかったので、反則技だとは思いつつセットで1位にした。
順番としては、『無言歌』『鳳鳴』『無言歌』の順で鑑賞。最初の『無言歌』は情報を何も入れずに観たので、ただただ撮影の美しさと演出の巧みさ、ドキュメンタリーと見紛うほどの徹底的なリアリズムに圧倒され、その時点でベスト10入りは間違いないと思って『鳳鳴』を観たら、、、
鳳鳴』は和鳳鳴という名の老女がカメラを前にして3時間ひたすら語るだけの映画である。そもそもそれが1本の映画として成り立ってしまうことがほとんど奇跡的であるし、語られることは反右派闘争時に右派のレッテルを貼られ迫害を受け続けた彼女の半生である。生半可な語りでは3時間もの長尺などもつはずがない。退屈かもしれない、そんな気持ちを鑑賞前に抱いた自分が恥ずかしくなるぐらい、彼女の流麗な語り口から眼前に想起されるヴィジョンは驚くほど明瞭である。なるほど監督のワン・ビンは『無言歌』において、圧倒的なリアリズムで反右派闘争下の劣悪な環境での強制労働の悲痛な有様を描き出した。だが、それに勝るとも劣らないほどの光景をこちらに想像させるだけの力が彼女の語りにはある。映画にはまだこんなこともできるのか。
そうした形式的な斬新さももちろんのことだが、個人的に何より『鳳鳴』に感銘を抱いたのはその主題である。その主題が故にこの二作を1位にしなければならないと強く感じるようになった。この映画は反右派闘争当時には遂に為し得なかった“革命”を回顧的に語るだけに留まらず、この映画それ自体が現在の“革命”になりうるのだ、と。語ることの革命である。そう、この映画があるが故に僕は『ソーシャル・ネットワーク』をあの順位にせざるを得なかった。佐々木中の言葉を援用するならば、革命の本質とは、“テクストを、本を読み、読み変え、書き、書き変え、語り、歌うこと”である。そしてそれは、99.9%負けることを前提として、そうした絶望的な状況を当たり前の前提として、それでも戦う、勝っては負ける終わりなき戦いの果てになされる革命である。これはほとんどが負ける絶望的な戦いではあるが、0.1%が生き延びれば勝つ戦いなのだ。反右派闘争は歴史に抹消された惨劇であり(『無言歌』は本国中国での公開が禁止されている)、地獄と言うも愚かな圧倒的な現実の見せかけの偽りの消失の最中で数多の名もなき生命が失われた。和鳳鳴は生き延びた。革命の糸は途切れることがなかった。『鳳鳴』のラストで静謐な語りを続けてきた彼女は不意に声を荒げる。
55万もの人間が不合理に右派のレッテルを貼られた。そのほとんどが現在までに名誉回復を完了させた。しかし、まだなされていない人間がいる。それは100人にも満たない、全体から見れば極僅かなものである。それでも彼らの名誉回復がなされるまでは反右派闘争について語り、書き続けなければならないと彼女は語る。たった0.02%の敗北である。彼女はゼロではない極小の可能性のためにこれからも書き、語ることによって抵抗を、終わりなき勝利への賭けを続けるだろう。
これ以上言葉を紡ぐことは蛇足であろう。こうした背景のもとで再鑑賞した『無言歌』は2011年に観た映画の中でも他に比肩するもののないほど格別な映画体験を与えてくれた。偶さかの体験を。


2012年はどんな映画と出会えるのだろうか。
願わくば『無言歌』を超える映画体験ができることを。