『はちみつ色のユン』と『隣る人』

『はちみつ色のユン』は、時代や現実の要請によって、血の繋がった両親との生活を断絶された子供が、血の繋がりがないはずの他人と真の親子になってゆく過程を描いた物語である。
親子とはなんなのか、親と子という関係性を定義するものはなんなのか、そんな本質に鮮やかに迫っていく。
朝鮮戦争以後、とりわけ60〜70年代にかけての韓国では、約20万人の孤児が国際養子となった。その多くは戦後韓国人女性とアメリカ兵との間にできた子供であり、儒教の伝統根深い韓国では、離婚した、あるいは未婚の母親に親権はなく、彼女たちに残された唯一の選択は私生児を国外に棄てることだけだった。
彼女たちが置かれた境遇は現在のルワンダの女性たちのそれと似ている。これはかつてあった歴史の一事実というだけではなく、今もなお起こり続けている事態であり、そのことに恥辱を覚えなければならないだろう。

本作の主人公ユンもまた、そうした悲劇的な現実によって、否応無く故郷を喪った少年の一人である。
雪深い韓国の孤児院で、行列をなして「アリラン」を歌う子供たちの姿をバンド・デシネ的なCGアニメーションで描いた場面から始まり、一人の中年男性が生まれ故郷であるはずの韓国において、韓国人の視線に違和感と恐怖を覚えるという誠実な感情を吐露する場面が続く。
一人の人間の過去がアニメーションによって、現在が実写映像によって、前者が韓国人でありながらベルギーの過程で育っている自分のアイデンティティの不在、その寄る辺なさに悩み、それでも今の自分を受け入れようとする少年の姿を、後者が大人になり、自らの出生のルーツを探ることで幼い頃から自分を苛ませ続けてきたアイデンティティの問題と決別するために故郷を訪れたユンの姿をそれぞれ描き、それらが交錯してゆく。
少年時代のユンの物語には実際の8ミリフィルムが使われており、この物語は紛れもない現実なのだと密かに訴えかけてくる。と同時に、このアニメーションは、ユンの過去の記憶を補完し表現しうるものだと気付かされる。

ユンは白人社会の中で、はちみつ色の肌を持つアジア人ではあるが、ステレオタイプな疎外者ではない。
ユンの兄弟姉妹は彼のことを受け入れているし、彼自身普通の白人以上に悪ガキとして生活を楽しんでいる。
時折養母や他人の無神経な一言に傷付けられはするが、むしろ他の韓国人養子との距離を取り、交流を避けている。
そんな彼はアジア人としてのルーツを日本に、日本文化に求めることになる。日本文化にかぶれ、そうすることで韓国人としての記憶を消し去ろうとしているとすら言えるような振る舞いを見せるのだ。

彼と祖国との繋がりは空想の中にいる「実母」だけだ。現実逃避に絵を描き続けるユンは、朧げな記憶の中にいる「実母」を描くが、いつになってもその顔が描かれることはない。いくら求めても「実母」の記憶からは断絶されてしまっている。
思春期になり、自らのアイデンティティの揺らぎに不安を覚えるようになったユンは、感情のコントロールが苦手でヒステリックですらある「養母」と口論になり、家を出ていくが、不慣れな一人暮らしの末に、生死を彷徨う病に倒れてしまう。
病床のユンは、「養母」から、彼女の最初の子が死産であったこと、ユンがその子の生まれ変わりだと信じていることを告げられる。
幼い頃から常に差別と侮蔑の視線には気付いていたものの意図的に無視し続けてきた自分、白人社会の中では得意な「はちみつ色の肌」を持つ自分、不安定な自己の存在をなんとか保つためにしてきたイタズラゆえに「腐ったリンゴ」と罵られてきた自分、そんな自分を心から愛し、受け入れてくれる存在は最初から「ここ」にいたのだ。自分の居場所は、ずっとここに。

「養母」は社会的に産み出された可哀想なアジア人をファッション感覚で引き取ったのではない。
本気でユンの「母」になろうとしたのだ。
『空想の母は愛せない。ただ夢見るだけです。私には母がいます。目の前にいます。』
と静かに語るユン。その言葉には「養母」に対する切実な信頼と愛情と感謝が横溢している。

しかし、本作の白眉はそこで留まらないところにある。
過去のユンのエピソードをそれだけで物語的、映画的にストレートに感動しうるものではあるが、そこには多少のきな臭さが残る。
結局これは救われた者の話でしかない。それ以外の「汚辱に塗れた人々」の話が無ければ、少なくともそれを見る側が認知しうる余地が無ければ、この映画の前提にある問題があたかも今は完全に解決されたものとして見えてしまう。
さきほど類似した問題としてルワンダの例を出したが、ドン・チードルが主演した『ホテル・ルワンダ』は非常に優れた映画ではありつつも、このきな臭さを残したまま映画を終わらせてしまっていた。

大人になり、自らのルーツを改めて探るユンは韓国で絶望的な事実を知らされる。彼には韓国で生きていたという記録がほとんど残っていないのだ。
拾われた時の僅かな証言が残存しているだけで、彼がどこで、いつ、誰の子として生まれたのか、それを証明する根拠がどこにも残されていない。
これはなまなかな事態ではない。
人は人の子として産まれ、人の子として育ち、人の子を産む、そんな当たり前の、しかし他の何よりも尊重されるべき制度を担保する準拠がない。
さらに、ユンと同じように、国際養子というアイデンティティの不在の問題を抱える韓国人の子供たちで、ユンのような幸福な結論に至ることができず、悲劇的な死を迎えた子供たちは数え切れないほどいるのだ。そんな辛く酷い、地獄というも愚かな現実が常に「そこ」にある、そこまで描くことによって、『はちみつ色のユン』は類稀なる誠実さを湛えた映画になっているのである。
彼ら彼女らにとっての「母」はどこにいたのだろうか?

『隣る人』
本作は、ウニー・ルコントの傑作『冬の小鳥』を想起させるドキュメンタリーである。
なんらかの事情によって家族と暮らすことができなくなってしまった子供が、児童養護施設で血の繋がりのない大人に育てられ、世界の不条理な現実に幾度とさらされることによって、どうしようもなく無力な自分は誰かに頼ることなしには生きることができないという事実に気付かされ、それを認識することによって子供は大人になる。
そうした物語を『冬の小鳥』は子供の視点から描いたが、本作は子供と大人、双方の視点を組み込んでいく。

階層ごとに色の異なる幻想的で美しい夕焼け空を映したオープニングシーンに、その時間帯ならばどの家庭にも響くであろう包丁と俎板の音が重なり、慌ただしい夕食の始まりを告げる。
本作は円環構造になっており、ラストは、子供たちがまだ起きていない早朝、彼ら彼女らのためにつくる朝食の調理音で幕が閉じる。
つまりこれは、この映画内で描かれるような出来事が、「光の子どもの家」という児童養護施設では、これまでもこれからも起き続けているのであり、これはいつもと変わらぬあの一日だということを示唆している。
そして同時に、そんないつもの、ありきたりな、平々凡々とした一日には、これほどの苦悩と葛藤と悲哀と歓喜と感涙が詰まっているのだということを意識させられる。

物語の軸となる登場人物は、勝気で元気、時に見る者をギョッとさせるような暴言まで吐く「むっちゃん」と、おっとりした性格の「マリナ」、そして二人の担当責任者である「マリコ」である。
二人の子供たちは、時に喧嘩し、時にじゃれ合い、大好きな「マリコ」を独占しようとする。
三人がいる空間には常に多幸感が満ち満ちていて、この養護施設が子供たちにとって幸福な空間であることがありありと伝わってくる。
監督の刀川和也は、「光の子どもの家」の共同生活の様子に加え、登校の際の子供たちのちょっとしたちょっかいの出し合い、パンツを恥ずかしげもなく見せながら床に寝転ぶ少女、絵本を読み聞かせてもらっている間に眠気に誘われウトウトとしてしまっている表情、嬉しそうに歯磨きをする姿といった何気ない日常の子供たちの挙措、発言をひとつずつ丁寧に積み重ねていくことで、説明的なテロップやナレーション、感情を誘導する音楽などまるで使わずに、「光の子どもの家」の世界を立ち上がらせていく。

マスコミが喧しく問題視する家族間の不和、実親と一緒に暮らすことができず養護施設にいる子供たちといった切迫した問題の別の側面をこそ、本作は見事に映し出す。
かつてのトラウマから実母に対しての距離感がわからず戸惑う娘、実の親子であるはずなのに娘とどう関係を築けばいいかわからず悩む母。
娘は母を拒絶し、母は娘への接し方がわからずショック症状を起こしてしまう。
どちらもが共に暮らしたいという思いを抱えながらそれが叶うことはない。
そうした場合、社会は母親を悪者に仕立て上げ、あるはずもない「母親の理想像」を全ての母親に強いる。今の時代、女性が一人で子どもを育てることの困難さは考えられることはない。
その上、母と娘が一緒に暮らすことを無条件でよきこととして、養護施設にいる子供たちに条件反射的に同情を覚える。
そんな偏見と侮蔑に満ちた人々の無意識を、本作は穏やかに、しかし痛烈に批判する。

本作は作り手が被写体と信頼関係を構築した上で撮影を行う、という古典的なドキュメンタリーの作法によって獲得し得た映像により、児童養護施設の重要性、つまり、子どもには血の繋がりとは関係なしに、ただそばにいてくれる人、自分の存在を常に肯定し安心感を与えてくれる人、「隣る人」がいなくてはならないということを鮮明に浮かび上がらせる。

むっちゃんとマリナが、『ママもパパもいないんだよ!』と咽びながらマリコに我先にとしがみつこうとする様に(この場面は次第に二人が相手より自分の方がマリコのことが好きであることを証明することが目的化してしまい、泣きと笑いが相互浸透してゆくのが面白い)、ある少女が施設内での責任者が変わる際に、元の責任者に抱きついて離れようとしない様子を見たむっちゃんが、その日の夜、ノートに何度も何度も、自分に言い聞かせるように、いつか自分の「ママ」もいなくなってしまうのではないかという恐れを払拭するかのように、「大好き」と書き続ける様に、マリコがいない夜、マリコがいつも寝ている布団に嬉しさと悲しさを滲ませながら潜り込むむっちゃんの様に、むっちゃんの10歳の誕生日に思わず涙を流すマリコの様に、その手前で気の抜けた表情を見せるマリナの様に、心打たれない人がいるだろうか。そこに真の親子の愛情を感じないことがあるだろうか。

本作が偉いのは、「光の子どもの家」が抱える大人の事情、矛盾までもひっそりと忍ばせているからである。
少人数制の擬似家族を構築し、子供たちに幸福な家庭を提供しているとはいえ、施設は施設。どんなに時間をかけ、苦難と歓びを共有し、相思相愛の関係を築いたとしても、「大人の事情」により離れ離れにならなければならない日がいつかは来てしまう。
「光の子どもの家」という良心的な施設でさえ、とどのつまり「施設」でしかないというどうすることもできない現実と、それでもこの「施設」は子供たちにとってかけがえのない、必要不可欠なものであるという事実が両方提示されるがゆえに、見る者は油断ができない。
大勢の人が親身になって子供たちに関わって、ようやく確立しえた子供たちの居場所さえも、「大人の事情」によって一夜にして無くなり、関係性は瓦解してしまう。
そんな「光の子どもの家」の思想的支柱を揺るがすような場面すら描かれるあたり、作り手の冷徹な視座が生温い同情や感傷を立脚点にしていないことがわかる。

誰かにとって誰かは「隣る人」になりうる。そこにはなんの制約もない。
「与える」でも「育てる」でもなく、「隣る」。
当たり前のように存在し、いちいちその存在を意識することもない。ただ隣にいるだけで安心感と幸福を感じることのできる存在こそが「隣る人」であり、この存在なくして子どもは大人への一歩を踏み出すことはできない。
今まで忘れていた自分にとっての「隣る人」の存在に想いを巡らせる、本作はそんな豊穣な映画体験を可能にしてくれるだろう。