2017年上半期ベスト映画

2017年上半期ベスト映画

1:『夜明け告げるルーのうた湯浅政明
1:『夜は短し歩けよ乙女湯浅政明
湯浅政明の才覚が全く別のベクトルで炸裂した2つの傑作。年間ベストではなく、オールタイムベストとして記憶したい。
湯浅政明の天才はあらゆるものを呑み込み、むしゃぶりつき、暴れ回り、アニメーションの快楽に触れる。
奇ッ怪なデフォルメと卓抜した色彩感覚に彩られる湯浅政明の画面ではありとあらゆる境界線が消えて行き、運動の快楽(歩くこと、食べること、踊ること、歌うこと)と映像の快楽が分かち難く結びついては浮遊し、湯浅政明にしか創造できない世界へと観客を誘なう。
どんな言葉を尽くしても凡庸な賞賛にしかならない。

3:『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』ジャン=マルク・ヴァレ
ジェイク・ギレンホールが世界で最も優れた役者の1人であることには何の証左もいらないように思う。
誰かを想うという感情が抜け落ちた男の再生は、男性性への回帰/開き直りではもちろんない。『わたしに会うまでの1600キロ』でただ女性であるだけで社会が突き付けてくる生き辛さを掬いとったジャン=マルク・ヴァレがそんな失態を晒すはずがない。
心の澱に微かに残った感情が静かな波によって露わになる瞬間に、止まっていたはずの時間が、映画が走り出す。

4:『未来よ こんにちは』ミア・ハンセン=ラブ
知性があることは美しい。そんな当たり前のことを湛えた女優であるイザベル・ユペールの一挙手一投足に心を奪われる。彼女の言動には年齢を重ねた女性に対する幻想も失望も投影されていない。
ストリートナレッジではない、アカデミックな知性が画面を燦々と照らし出し、女性が女性たらんとする凛然とした姿に寄り添うミア・ハンセン=ラブの視線に掻き乱された心を落ち着かせるだけで精一杯である。

5:『人生タクシー』ジャファル・パナヒ
もう新しい映画など見ることはできないし、撮ることもできないなんて譫言を言うのであれば、すぐに映画に関わるのをやめるべきだろう。
アッバス・キアロスタミが『ライク・サムワン・イン・ラブ』で示してくれたラディカルさへの抵抗を微かに確実に滲ませる本作は、どこまでも映画に誠実である。
昨今の藝術と政治を意図的に切り離そうとする「腑抜けさ」には呆れ返るしかない。それでも、なお。映画を撮ることが死に直結するパナヒから、それでも映画に関わることをやめない酔狂な人々への愛とユーモアに満ちたエールに涙する。

6:『ムーンライト』バリー・ジェンキンス
人間は孤独であり、映画は孤独に寄り添う藝術であることを改めて意識させられる。
強いられた抑圧が本来こうはなりたくなかった自分へ主人公を導く瞬間のどうしようもなさに嗚咽が止まらなかった。
同性愛を描いた映画だから、ほぼすべてのキャストとスタッフが黒人で製作された映画だから、アカデミー賞作品賞だから、そういった重苦しさをすべて抜きにして、眠れない夜にそばに置いておきたい映画。
愛とは、目の前にいるその人を飢えさせまいとする心である。

7:『パーソナル・ショッパーオリヴィエ・アサイヤス
クリステン・スチュワートは才気煥発な女優であり、寡黙な妖艶さを無邪気さとしたたかさの中にしのびこませている。彼女が画面に映るだけで不穏な香りが漂い、異世界への道が開かれる。
わからなさをわからなさのままに映し出し、何がわからないのかわからないという理解に到達すると、瞬く間にその理解すらもわからなさに収斂されていく。
幾重にも織り込まれたわからなさはオリヴィエ・アサイヤスの仕掛けた罠である。物語に従属しない映像のトリックに観客が溺れ落ちた時、クリステンの眼差しは何を見据えているのだろうか?クリステンの言葉は何を問うているのだろうか?

8:『はじまりへの旅』マット・ロス
正しく人を弔うことが宗教の最後の拠り所ではないか?というよりも、正しく人を弔うことができない宗教はそもそもが非宗教的である。
俗世間から離れ、生きる技術と智慧を蓄えつつ「生による抵抗」を実践する家族をカルト宗教だヒッピーだなんだのと嗤うことができるだろうか?
彼らは気付くのだ。世界には選択肢があることに。凡庸な文明と自然という二項対立は消滅し、人は何によって統治されるのか?という根源的な問いに至る。
国家でも宗教でもない統治の仕方がある。いな、統治のバリエーションはわれわれが想像するよりはるかに豊穣であり、いつもわれわれを驚嘆させる。
歌によって、ダンスによって執り行われる葬礼が、永遠に死を自覚できない死者に死の根拠を与え、残された家族はしめやかに愛する者の死を受け入れる。

9:『哭声 コクソン』ナ・ホンジン
予測できたはずだ。その萌芽はあった。ナ・ホンジンは超現実的ですらある人間の生への渇望を描いてきた映画作家であった。
それにも関わらず、『哭声 コクソン』で突如として提示される突拍子も無さに言葉を失う。
あまりに唐突で大胆な舵取りの終わりに浮かび上がる全体像すらも一部でしかない。何も全体になることがなく、その刃はナ・ホンジン自身にも突き付けられている。
人は何を信じるのか?何を信じて何を信じないのか?その根拠はどこにあるのか?
『哭声 コクソン』は「自分だけは醒めている」という全能的な思考をすることが隘路に至るおそろしさを、誰にも想像し得ない形で映像化してしまったのである。

10:『PARKS パークス』瀬田なつき
消えてしまった音楽を思案すること/その続きを創ることの歓びは、澄んだ青空から射すあたたかい陽光のように、白いカーテンをこっそりとたなびかせるとらえどころない風のように、軽やかに画面に姿を見せる。
ボロボロの音が再び生命を吹き込まれる時、その音色を自らの手に取り戻す時、継承の鐘が静かに鳴り響く。
井の頭公園の歴史に刻み込まれた死と愛が、映画における「幽霊」の形象として茫洋と描かれることへの小気味良い悦びは、狭義の意味でのシネフィルを喜ばせる手慰みではない。

11:『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』ジェームズ・ガン
12:『ザ・コンサルタント』ギャビン・オコナー
13:『沈黙 サイレンス』マーティン・スコセッシ
14:『T2 トレインスポッティングダニー・ボイル
15:『レゴバットマン ザ・ムービー』クリス・マッケイ

ワースト
『人生タクシー』の上映前に流されていた2人の日本人監督による2本の短編映像
パナヒの作品を見た上で両名がこの作品を撮ったのだとすれば、おそろしいほどに傲慢か驚くべき無知かのどちらかである。