フェミニストについて私が知っている二、三の事柄

わかった、わかった、フェミニストという言葉が嫌いなのは。そんなことは承知で書いているのだ。現代におけるフェミニズムは罵倒や脅しの枕詞に近い存在のようにすら感じる。
「あいつはフェミニストだから云々」「あいつはフェミニストのくせに云々」。フェミニストフェミニズムGoogle検索をして関連キーワードを見るだけで、フェミニストフェミニズムという言葉が纏っている不穏さの一端を垣間見ることができる。

正直に言おう。フェミニズムを巡る論争が反復と循環ばかりで嫌になることがある。(もちろんそこには少なくない差異が、進歩があるのだから、それに意味が無いと切り捨てることは先人の勇気ある言動に対する歴史修正主義的な振る舞いであり、断固として認められるべきではないのだが)

認めよう。フェミニズムはあまりに多くの失敗をしてきた。フェミニストであることを証明するために一人の女性であることを忌避させることも、セクシュアルマイノリティに対して差別的な態度をとることも、フェミニズムの明らかな瑕疵であるし、なによりすべてのフェミニストに完璧なフェミニスト像を押し付けてきたことは、今もなお押し付けていることは何度だって批判されるべきだ。

単一の、完璧なフェミニストイメージの強制は男性嫌悪を衒いなく称揚しつつ、根底には「男性になる」ことへの歪んだ欲望(男性との同一化と呼び換えてもよい)がある。それはある時期のフェミニズムが、自らの生き残りを賭けた方策であったことは是認できたとしても、それが未来永劫肯定されるべき方策でないことは明らかだ。自分で自分の首を絞め続けるフェミニズムには別の藝術が、別の形式が必要なのだ。
フェミニズムがあえて強硬的な態度をとってしまったことの余波が、様々なネガティヴイメージを纏うフェミニズムを生み出した。
それゆえに、この時代にフェミニストであると宣言するだけで、アンチフェミニストからもフェミニズム原理主義からも嫌われる。

しかし、これはフェミニズムに限ったことではない。あらゆるイズムにおいて、アンチと原理主義は不可思議な協定を結ぶのだから。そして偏見と盲信で本来の多様性を失ったイズムは暴力性を孕むのだから。
フェミニズムの瑕疵はあらゆる政治的な策略にも通じる。この社会/世界の認識を革新するための近視眼的な市民権を得るためには、少しばかり荒っぽいことも承知で突き進まなければならない、と。そんなものはつまらないレトリックにすぎない。何かこの社会/世界には人類の誰もが望む理想があって、それを達成するためには少なからぬ犠牲は払うべきであると。しかし、その犠牲に自分は含まれていない。

自分が崇拝する理念にべったり寄り添って、無頼、アウトサイダーアナーキスト、何でも良いが、既成の価値への反発を気取ってみせる。そんなものには飽き飽きだ。既存の価値にノーを突きつけるだけで、変革への一歩がない。何も始まっていない。終わりを突き付けているだけだ。
確かにそれは「正しい」。錆と苔の生えたシステムがキリキリと音を立てながら何とか体裁を保っている姿は、あらゆる領域で観測できる。1つの形式が終わりを迎えている。しかし、それは永遠の終わりではない。その「正しさ」は何かを否定するための「正しさ」でしかなく、その「正しさ」ゆえに人の目に靄をかけてしまう。
余談ではあるが、その絶対的な正しさの裂け目をこじ開け、正しく失敗する/負けることに賭ける営みが生きるための技藝としての藝術であることは論を俟たない。

そう、フェミニズムの戦略は生き延びない。生存を続けるための策略であったはずなのに、最初からその生存への道が閉ざされていたのだ。
もううんざりだ。何回も見てきたじゃないか。ある権利を守るための闘いが、別のある権利を蹂躙しているところを。大きな物語/目的を達成するために小さな物語/目的はその存在をかき消されてしまうところを。崇高な理念の果てが暴力に成り下がるところを。
もはやその矮小な革命思想自体がこの社会/世界の認識に組み込まれた抵抗でしかなく、異端を旗印として自分以外の死を肯定する無残な代物でしかない。その認識から始める必要がある。

だから、フェミニズムの瑕疵を引き受けようとする態度はある側面において(自らの負の遺産を無きことにせず、目を逸らさずに見据えようとする意味で)誠実である。
そしてそれは、フェミニズムに対するあまりに無知蒙昧な暴言も、それが苦渋と屈辱に満ちたものだとしても、ひとまずは受け入れるところかは始めなければいけない、 という態度に結実する。

わかった、わかった、引き受けよう。そもそもが不平等なゲームなのには腹が立つし、それを不当だと糾弾せずにフェミニズムの瑕疵を批判することは、ジェームズ・ボンドとして生きることに何の疑いも感じない男の戯言なのだとしても。

未だに「男性は理論的で女性は感情的」という粗末なカテゴライズに溜飲を下げる人がいることも。(そのほとんどが男性が自らを安心させる策略的な方便だとしても!)
テレビの中でお笑い芸人がミソジニーとセクシズムを撒き散らして笑いを得ようとしていることも。
日本の大手出版社が女性トイレに下劣なサインを掲げていることも。(茶目っ気たっぷりのユーモアでしょ?と言わんばかりに!)

どこまで引き受ければいいのだろうか?あまりにミソジニーに塗れた、目を覆いたくなるような言葉や現状に正当に「No」を突き付けることをいつまで我慢すれば良いのだろうか?何かに対して正直であることになぜ疲弊しなければならないのだろうか?

なので反論したくなるのだ。声を挙げたくなるのだ。それは間違っているんだ、と。フェミニズムフェミニストを取り巻く罵詈雑言を聞くだけで、見るだけで何かむず痒いものを感じてしまう。
それに対して正直であることはなぜこんなにも批判されなければならないのだろうか?なぜ自分は男なのだろうか?なぜ男としての特権を無自覚に利用しつつ平気な顔をしていられるのだろうか?
なぜ、なぜ、なぜ?

いつか、いつの日かその問いが当たり前になる日を求めるために。
いつか男であることの恥辱が書くことの根拠になるために。
これ以上の言葉が続かない。これは今までも、今も、これからも自問しなければならない問いだからだ。
彼女たちは失敗した、坂口安吾のように。しかし、その失敗は明らかに、間違いなく、ある思考の沃野を開いた。