『映画なしでは生きられない』真魚八重子

真魚八重子『映画なしでは生きられない』は純然たる「映画批評」であり、そうであるがゆえに1つの藝術として屹立している。
敢えて断言し、唐突に引用する。『映画なしでは生きられない』は個人体験の敷衍による安易な共感を斥け、ただそこに在ることを肯定することで真の共感に辿り着こうとする模索が刻み込まれている。
「『誰だってジタバタしながら、ぱっとしない人生を受け入れようとしている。約束して、わたしを置いていかないと。』失望しても、そのなかでなんとか生きること。(中略)死なないと確約はできない、でもできる限り回避することだけは努める。しかし、あくまで『死なない』と口先の嘘はつけない。」
「どうしても死なせたくない親しい人のため、なるべく先に死なないようにするというのは、生きる理由として捨てたものじゃない。そんな理由で生きていたって悪くないのだ。それはダメな人間にとってできる限りの、ギリギリの切実な愛なのだから。」
「死なないように生きているだけという人もきっと少なからずいて、能動的に死を選べないから、ただ死ぬまで生きながらえているという感覚の人もいるだろう。(中略)今いるここから、もうどこにも行きようがない。先細りになっていく詫びしい道を、いやいやでもただ進む以外にもはやない。」
「わたしも本当は死にたいなと時々、道で立ち止まるように思う。ただ、死ぬ勢いも切迫感もないから、よろよろと歩いているだけ。映画は、自分がいま死なない代わりに、スクリーンのなかで俳優が代替行為として死に向かう。(中略)死に瀕する精神的な限界に立ち会うことで、生きていたくない気持ちを浄化し、とりあえず明日、もう一本映画を見ようと思う」

「作品」と「批評」の健全かつ創造的な関係とは何か?
「作品」の創造主たる作家は、批評家の悪辣な批評に反旗を翻し、批評家などそもそも相手にしておらず、「大衆」からの支持を得ることができればそれでよいのだと嘯くだけにとどまらず、批評家のすることなど他人の褌で自らの権威付けを謀るだけで、一切の創造性を失った惨めな「創造主の寄生虫」にすぎないと痛罵することもある。
対して批評家は、あらゆる酷薄な選択を経て、痛痒とともに産み落とされた作家の作品をズタズタに斬り刻み、自らの思想、価値観、挙げ句の果ては文章の帳尻合わせに作品を利用する。言論の自由という美名の下、独善的な作家性に陥り、創造主であるというただそれだけで浅薄な自尊心を満たしている作家を駆逐することを厭わない。

創造主を自負するだけの才能も鍛錬も欠けた「偽の創造主」、自らを賭さず安全圏から創造主を痛撃するだけの「創造主気取り」。
あるいは、「作品&創造主」と「批評&批評家」が蜜月の関係を築き、結託し、阿り、両者の関係と同様に弛緩して寒々しい「作品」と「批評」が量産されることにもなりうる。

ジャン・コクトーを引用する。
「最悪の芸術家でも、最良の観客に勝る。」
この言辞には幾つもの注釈が必要であろう。どんなに無能な芸術家であっても、何かを創造するという一点において、「最良の観客=批評家」よりも優れているのだし、それを擁護する、というジャン・コクトーの芸術家肯定には時代的な要請がたぶんに含まれる。
アンドレ・バザンの存在を無視することなど無知の戯れと誹りを受けかねないが、ジャン・コクトーを会長として設立された「オブジェクティフ49」は、後に「作家主義の砦」となる「カイエ・デュ・シネマ」の人的、思想的母胎であろうし、オブジェクティフ49が、オーソン・ウェルズという偉大な「作家」にすら、同時代的に正当な評価をしなかったヨーロッパの頽落ぶりを比喩して、「呪われた映画祭」を開催することで「作家の映画」を顕揚することに躊躇いが無かったことも事実ではあろう。
今まで無視され続けてきた「作家」「作家の映画」を掲げることには、現状追認と粗製濫造に溢れた当時のフランス映画界への徹底したアンチテーゼとなりえたのである。
とすればジャン・コクトー箴言は、単純な作家の肯定ではありえない。自堕落な作品の「仮初めの作家」は、ジャン・コクトーが無意識に定義する「作家」からそもそも除外されている。ジャン・ルノワールが言うところの、「禁断の木の実を食べた」人間だけがジャン・コクトーの賞賛に値したのである。

ジャン・コクトーの断言は、後に「カイエ・デュ・シネマ」が、絶対的な作家の擁護と峻烈な作家の否定を批評によって明示することで、映画界に1つの大きなうねりを生み出したことと共鳴している。
ヌーヴェル・ヴァーグと歩みを共にした「カイエ・デュ・シネマ」において、作家は批評家であり、批評家は作家であった。限られた友愛によって強固に結束された「カイエ・デュ・シネマ」を悪しきロマン主義の象徴、内輪褒めと外部の拒絶による閉塞したコミュニティ、権威主義に繋がりうる衒学的な映画雑誌、映画の矮小化/自分語り化などと批判することはいくらでもできる。
しかし、「カイエ」が映画史に残した傷痕は途方もなく大きい。今もなおヌーヴェル・ヴァーグの影響下から抜け出せないフランス映画界の停滞は、ヌーヴェル・ヴァーグカイエ・デュ・シネマの遺産がいかに巨大であるかを物語っている。
仮に一瞬の、多くの遺恨を残してしまった結託とはいえ、「作品」と「批評」はお互いが果たすべき役割を果たし、手を結び、映画史を形成する作品を次々と産み落としていったのである。

長々と書き連ねたのは、創造主たる作家による批評の無効化と批評家による作品の冒涜ばかりに溢れ、自分語りでも映画を誤読した「社会批評」でもない、その名の通りの「映画批評」が生き残りを問われている時代において、どこまでも映画批評を貫いた本に出会ったからである。
『映画なしでは生きられない』はどこまでも「映画」に、「批評」に忠実である。索漠とした情報の羅列や手慰みの知識の披瀝に耽溺せず、あらん限りの自分を詰め込みながらも下卑た自分語りに淫していない。そこに映画があり、それを語る。ただそれだけである。穿った読解も奇を衒う文体もそこには付け入る隙などない。筆者は「退屈」を恐れていないようにすら感じる。だからこそそこには誠実な肯定があり、誠実な共感がある。

共感を勝ち得たか否かは、藝術を評価する際の1つの基準でしかない。受け手側の共感を意図して創られた藝術が酷く凡庸で、そのあざとさに辟易することもある。共感は強制されるものではない。強制された共感は他者を排除し、暴力として作用しかねない。共感には、自分と遠く離れていたはずの存在や状況と自分が不意に繋がる瞬間の、あの遭遇の、あの発見の、予定調和的ではありえない悦びが伴わなければならない。

『映画なしでは生きられない』の読書体験によって、初めて「映画批評」なる胡乱なものに触れた時の記憶が呼び起こされる。初めて山田宏一の文章に触れた時のような想いに駆られる。何故この人はこちらがずっと考えていて、しかし言葉にできなかったことをこんなにあざとくなく、厳しく、柔らかに掬いとり、映画を、映画を見る自分を密やかに肯定してくれるのだろうかと。そして、そこに書かれている映画を見たいという衝動を読者に植え付け、映画がもたらす独善的でない救いと軽やかに同調する。

「性差に還元しえない、それでいて女性性に自覚的な語り口」には筆者の苦悶が滲んでいる。日本、日本映画界という女性にとって「生き辛い」世界の中で、1人の執筆者として生き抜くために、「女性であること」を主張するでも捨て去るでもなく、かといって「女性である」という絶対的な事実から逃げるわけでもなく誠実に書き続けてきたからこそ獲得できた語り口であろう。
「女性ならではの」「女性にしか書けない」「女性だけがわかる」云々、そうした単純化の陥穽を避けて映画の本質に迫る筆者は、「女性批評家」などという忌々しい冠、ほとんど下衆な留保を必要とせずにただ「批評家」として評価されてしかるべきである。

『映画なしでは生きられない』は本文中で語られる映画がそうであるように、ある種の無関心を感じさせるほどの抑制によって言葉が連なり、人間の生を肯定する。「映画がそこにただ在り、それを見る」ということ自体によって、 最低限の生を保証する。うんざりするような楽観性でも優越に裏打ちされるシニシズムでもなく、死になり果てるギリギリのところで人間の生を掬い、救い、肯定する。

著者の文体は映画の情熱にほだされず、不思議な冷徹さを貫いていながら、安全圏から映画を「解体」する素振りなど見せない。映画を外部の存在によって語ること、映画を映画以外の何かによって説明することを拒絶している。どこまで突き詰めてもそこに映画が在るだけなのだ。そしてその誠実な「映画がただ在ること」の肯定は、「人間がただ生きる」ことの肯定へと繋がっていく。
「ただ生きる」ことは「生き辛さ」を自覚してしまった人間に許された逃走の、闘争の道である。「生き辛さ」を自覚してしまうと、あらゆるものが鬱陶しく、愚劣に思え、否定によってしか生への根拠を見出せなくなってしまう。それでもそれに立ち向かうだけの何かがあれば良い。闘争はそこからしか始まらない。
しかし、わたしはそんなに強くないのだ。闘争を始められるはずもなく、ひたすら逃走するしかない。否定して否定して否定して、「生き辛さ」だけに雁字搦めになって戸惑うのだ。自問するのだ。どうすればこの「生き辛さ」から逃げられるのか、と。
おそらくそれは叶えられない。「生き辛さ」はどこまでも付き纏い、どこまで逃げてもそれに追われてしまう。そして際限なく囁きかけるのだ。諦めよ、諦めよ、諦めよ、と。

『映画なしでは生きられない』の筆者は、この世界、この社会が要求する否応ない「生き辛さ」をじっくりと見据えている。けれども「生き辛さ」を抱えてしまっていることを前提にして「生きること」を見据えている。「生きたい」という情動はないけれど、それは「死ぬこと」を意味していない。「ただ生きること」は「死ぬこと」への精一杯の抵抗である。そして映画はその選択を赦し、そっと後押ししてくれる。

そう、自分だけではなかったのだ。「生き辛さ」に溢れた世界で、社会で「ただ生きること」という密やかな抵抗をしているのは。
それだけでよい。誰にも気付かれない共感と共鳴と共振を求めて、「とりあえず明日、もう一本映画を見ようと思う」。