2017年ベスト映画

今年も映画を見て、ああでもないこうでもないと終わりのない煩悶を繰り返しながら好きな映画を選びました。

1:湯浅政明夜明け告げるルーのうた
初めて見た時から心のざわつきが少しも薄れず、何度も何度もルーがいる世界を想像する。
そこには荒唐無稽なハッピーエンドの肯定がある。

2:ポール・ヴァーホーヴェンエル ELLE
ヴァーホーヴェン的な過激さは、本作の主眼ではない。彼の映画に慣れ親しんだ者からすれば、あらぬ方向の肩透かしに感じてしまうかもしれないが、どこまでもヴァーホーヴェンの映画であることは間違いなく、生を渇望し、性に欲情し、政に唾を吐き、聖を求めて足掻く、人間的な、あまりに人間的な営みを見事に映し出す。
最大公約数的な/統計学的なカテゴライズによる円滑なコミュニケーションを拒否するためには、無理解を強要されることも無理解を内面化することも遠ざけた先にある人間を見つめなくてはならない。

3:アレハンドロ・ホドロフスキーエンドレス・ポエトリー
映画が生きる技藝としての藝術であるとするならば、医術と藝術が分かち難く結び付いていることを自明のものとして受け入れることができるのであれば、本作がもたらす「癒しと赦し」を疑う素振りはできない。
自分から遠く離れた人間に、人生に、なぜこんなにも心の撹乱と安寧を感じてしまうのか。(それも現実を歪曲し、捏造したフィクションであるにもかかわらず!)
ホドロフスキーの定義する「詩人」は絶えず自らの変革を求め、肉体を伴った行動を要請する。終わりなき永遠なる詩的行為の果てに、ホドロフスキーが到達した「癒しと赦し」に否応なく共鳴してしまうのである。

4:ジャン=マルク・ヴァレ『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』
感情は抜け落ちる。あるはずの感情が生起しない。そんな孤独と恐怖を感じたことがある。
人間的な情動が一切揺り動かされず、本当に自分は人間なのか?という問いに頭を悩ませることがある。
その心地良さにそのまま安住したくなることもあるが、「人生も時間もこちらの意図とは関係なく前に進んでしまう」という残酷さを見据えなければならない、という当たり前の事実を、時間藝術たる映画は教えてくれる。
心の澱に微かに残った感情が静かな波によって露わになる瞬間に、止まっていたはずの時間が、止まっていたはずの人生が、止まっていたはずの映画が走り出す。

5:ユン・ガウン『わたしたち』
一人称の「わたし」はいつだって他者であるはずの「あなた」を求め、「わたしたち」になることで安心を得る。
一人ではない、というあまりに脆く、あまりにナイーブなよすがに縋ることで、不安定な「わたし」を、平穏を担保する「わたしたち」に変えてくれる。
しかし、「わたしたち」は「わたしたちではないわたし/わたしたち」を区別し、差別し、排除する。無数の「わたしたち」がそれぞれの「わたしたち」を守るために、様々な策略を張り巡らせ、正当な根拠を求め、「わたしたち」であることを確認し合う。
世界中のありとあらゆる場所、ありとあらゆる時代に起こる「わたしたち」の抗争の終焉は、勇気ある赦しである。

6:ミア・ハンセン=ラブ『未来よ こんにちは』
イザベル・ユペールという存在を無視して2017年の映画を語ることは、私にはできない。
「男の身勝手な幻想でしかない女性像」からの逸脱は、その幻想を内面化して演じることが女優として評価される唯一の道(これもまた男性側の狡猾な策略でしかない)であるかのように仕立て上げた映画界への痛烈な一撃である。
エル ELLE』でもそうであったように、イザベル・ユペールが演じるキャラクターの言動は、年齢を重ねた女性に対する「幻想と失望(言わずもがな男性から女性への)」、そのどちらをも投影されていない。
女性が女性たらんとする凛然とした姿に慄然とし、ミア・ハンセン=ラブとイザベル・ユペールという2つの知性の邂逅に、心を奪われる。

7:ジョン・マッデン女神の見えざる手
銃規制を巡るロビイストの物語は、ジェシカ・チャステイン演じる「Miss Sloane(原題)」が自らの名前を告げるところから始まり、まずもってその「声」に魅了されることで、圧倒的な「言葉=声」の波に溺れそうになる本作において、「Miss Sloane」の「声」を拠り所にして画面を見つめなければならないのだ、という前提を飲み込むことができる。
ロビイストとして、清濁併せ呑む手練手管を余すところなく披露しながらも、正義を掴み取るための不正義が不意に正義の正当性を反故にしてしまう恐れをひた隠しにする「Miss Sloane」は、言動とは裏腹に、誠実にアメリカ社会を、世界を見据えている。
巧妙に組み上げられたシステムの中では、アンチテーゼすらも取り込まれ、システムの存在を許容する理由として機能させられてしまう。解を見えなくさせるシステムの隘路の中で、そのシステムを成立させる前提に「No」を突き付けることの清々しさに喝采をあげたくなる。

8:マット・ロス『はじまりへの旅』
「正しく人を弔うこと」を描くことは難しい。それも「われわれが葬礼と呼んでいる仕方」ではない形で、「正しく人を弔うこと」の意義を問う本作は、遥かなる歴史の中で、人間が編み出してきた統治のバリエーションがいかに豊穣であるかを揚言することで終わりを迎える。
国家も宗教も、正しく人を弔うために必要な装置であったし、あるし、これからもあり続けるだろう。しかし、単一の/唯一の装置ではありえない。本作のラストを見れば明らかである。
歌によって、ダンスによって執り行われる葬礼が、永遠に死を自覚できない死者に死の根拠を与え、残された家族はしめやかに愛する者の死を受け入れる。

9:ジャファル・パナヒ『人生タクシー』
もう新しい映画など見ることはできないし、撮ることもできないなんて譫言を言うのであれば、すぐに映画に関わるのをやめるべきだろう。凡百のラディカルさなど一笑に付し、軽々しく「ラディカルさの罠」を飛び越えていく本作は、「自由」を希求する者にしか訪れない奇跡に満ちている。
映画を撮ること、自由を求めること、生を全うすること、そのすべてを規制され、「死」を眼前に突き付けられてもなお、パナヒは決して「愛とユーモア」を手放さない。パナヒからのエールと花束に感涙し、鼓舞され、映画に関わることをやめられない酔狂な人々が世界中に存在する。
そんな人々の存在を知った上で、藝術と政治を意図的に切り離そうとする「腑抜けさ」をなぜ許容できるのだろうか?

10:バリー・ジェンキンス『ムーンライト』
秘められた想いはどこに向かうのであろうか?一向に解きほぐすことのできないその想いを抱えたまま生きることは、どれほどの抑圧を強いるのだろうか?自らを「孤独」に追いやれば納得はできるのだろうか?
「孤独」を気取ることができれば、どんなに楽なのだろう。秘められた想いを「無かったこと」にできれば、どれだけ平穏な生を送ることができるのだろう。
それができないから、人は「本当の自分」を追い求め、「愛」を探し求める。他の誰でもない「自分」と、他の誰にも邪魔をさせない「愛」があるだけで良い。ただそれだけのことが、こんなにも難しいことを、『ムーンライト』は切実に映し出す。
愛とは、目の前にいるその人を飢えさせまいとする心である。


11:湯浅政明夜は短し歩けよ乙女
12:大林宣彦『花筐 HANAGATAMI』
13:ゲイブ・クリンガー『ポルト
14:スティーブン・ソダーバーグローガン・ラッキー
15:ジェームズ・ガンガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』
16:オリヴィエ・アサイヤスパーソナル・ショッパー
17:ナ・ホンジン『哭声 コクソン』
18:トム・フォードノクターナル・アニマルズ
19:瀬田なつき『PARKS パークス』
20:マーティン・スコセッシ『沈黙 サイレンス』

以下、順不同
西谷弘『昼顔』
ギャビン・オコナー『ザ・コンサルタント
ティム・バートンミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち
ダニー・ボイル『T2 トレインスポッティング
M・ナイト・シャマラン『スプリット』
ジム・ジャームッシュ『パターソン』
リドリー・スコット『エイリアン コヴェナント』
エミール・クストリッツァオン・ザ・ミルキー・ロード
マーク・ウェブ『gifted ギフテッド』
ジェームズ・マンゴールド『LOGAN ローガン』
クリス・マッケイ『レゴバットマン ザ・ムービー』

2017年ワースト映画
『人生タクシー』上映前の短編2本
大根仁『‪奥田民生‬になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』
ガース・デイビス『LION ライオン 25年目のただいま』
富田克也バンコクナイツ』
デヴィッド・リーチアトミック・ブロンド
小林勇貴全員死刑


期待値の割には楽しめなかった映画
ケネス・ロナーガンマンチェスター・バイ・ザ・シー
ガブリエーレ・マイネッティ『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ
パディ・ジェンキンスワンダーウーマン
ヨン・サンホ新感染 ファイナル・エクスプレス
セオドア・メルフィ『ドリーム』
ジョーダン・ピールゲット・アウト
ザック・スナイダージャスティス・リーグ