映画通とアフォリズム

なんだか最近また話題になってる記事です。
記事が出た当時も怒っていた気がします。

全方位に誤解を生む、心底どうでもいい内容なんですが、別ジャンルに置き換えると自分もそんな愚劣な振る舞いをしたことがあるのかもしれません。

だからこそ、普段映画を見ない方々に言いたいのは、ここに書かれてることは全部しょうもなくて、くだらない!と断言していい内容だってことです。

少しでも映画が好きで、その魅力に耽溺している人間からすれば、こんな中途半端で貧相な「映画通」なんて会話の相手にするだけ無駄です。
それは映画に関する知識がないから、という理由からではもちろんなく、戦略的に「映画通」を気取り、知りもしないことをお手軽なクリシェでわかった気になる愚劣な姿勢ゆえです。

この記事に挙げられているフレーズ全てが、インスタントな情報と表層の評価だけを抽出し、書き手の誤解と偏見丸出しの、とても「映画通」による発言とは思えない代物です。

仮に、1億歩譲って、これを実践すれば「映画通」なるものになれるとして、それに何の意味があるというのでしょうか?

作品も見ないままに、ゴダールと溝口の関係を薄っぺらな言葉で語り、「ハリウッド大作」批判で俗物根性を晒し、近年のタランティーノ作品における会話の物語的重要性を無視し、ミヒャエル・ハネケポール・トーマス・アンダーソンアキ・カウリスマキウェス・アンダーソンといった優れた映画作家を卑小なカテゴライズで理解した気になる。
そんなものが「映画通」なのであれば、「映画通」になる必要なんて全くないでしょう。

もちろんどんな藝術であれ(スポーツや学業に置き換えても同じことです)、知識を蓄積し、かぶれることには意味があります。
しかしそれは、スノビズムに浸ることでも、自分の優位性を担保することでもなく、自分の中でさる藝術作品をどのように位置付けるか、理解するかを手助けするために必要なことで、最終的な価値判断の基準は自分に求められます。

件の記事が、一個人の意見であれば全く問題ないのですが、戦略的に「映画通」だと見なされるための、実践可能な策略として流布されることを目的としているのであれば、それには断固として「否」を突き付けます。

少し話が変わるようで変わらないのですが、世の中には、「ニーチェぐらいは知っておかねばならない」といった強迫観念があるようです。
ニーチェの思想はアフォリズムであり、よくある「偉人の言葉」として、手っ取り早くわかった気になれます。『超訳 ニーチェの言葉』などその最たる例です。

しかし、当然それは「ニーチェの思想を理解すること」とは、全く異なることであり、ニーチェに関して言えば最も危険な理解の仕方です。
なぜなら彼の思想=アフォリズムは、それ単体では非常に危険な結果を導いてしまう可能性があるからです。
慎重に精読しさえすれば、全く相容れないものとして理解されるはずのニーチェの思想が「誤読」され、「曲解」され、ナチズムの思想的基盤に寄与してしまったことは、死後のこととはいえ、最大の汚辱でしょう。

何をそんな話を広げて、口さがなく批判しているのかと怒られそうですが、通底する問題は同じです。
まるで意味のない知識の複写であり、藝術を生業としている人々への冒涜だとすら感じます。

終わりです。

http://woman.mynavi.jp/article/130530-004/