『君が生きた証』呪われた藝術に関する雑考

この世に呪われた藝術など存在するのか?
この問いが提示する「呪われた」とは、「世間に発表すること」「創造者以外の人間の目に、耳に、感覚に触れること」を意味するという前提が許されるとすれば、答えは明白である。
焚書」は世界中のあらゆる地域・時代において行われ続ける愚行であり、「検閲」「規制」によって数多もの絵画・彫刻・書籍・音楽・映画などの藝術がその存在を歴史から抹消されてしまった例を挙げれば、枚挙にいとまがない。
これらは主に、その内容・主義・主張によって断罪されてきた藝術の例である。ここで言う「呪われた藝術」とは、重なる部分が多くあるとは言え、少しニュアンスが違う。つまり、創造主がある罪をおかした者である場合、その罪ゆえに創造物の存在そのものまで否定されてしまってよいのだろうか?ということである。

少し余談になるが続ける。もちろん、藝術が凄絶なる「検閲」の暴力の逃げ道を模索することで、表現の幅を拡張させていった事実は否定できない。藝術は「検閲」からの遁走の歴史と言っても過言ではないし、ある種の「不自由」があるからこそ「自由」へと生き延びる道は創造しうると断言しても良い。
しかし、それは後出しで見出された理由付けに他ならず、「検閲」が存在することを肯定するものではない。
また、「表現の自由」の美名の下に、自らの信奉するイデオロギーを無条件に最上位に位置付け、それ以外の価値観を廃絶する言説が蔓延っているが、「呪われた」藝術の存在をそのような卑劣な視点から擁護したいわけでもない。

ひたすら単純に、創造主の犯した咎を唯一の根拠として、「歌ってはいけない、演奏してはいけない音楽」が、「読まれてはいけない、書かれてはいけない書物」が、「見られてはいけない映画や絵画」が存在してはならない、ただそれだけのことなのである。
ある藝術が完全に社会性・外部と無縁であることは不可能だが、だからと言ってそれだけの根拠で存在を否定されるべきではない。

また、犯罪者の子どもは犯罪者、あるいは犯罪者の親は犯罪者、などという愚劣な思い込みは、自らはそんな振る舞いはしまいと固く信じている人々にさえ、無意識であれ、人の善悪を判断する際に何らかの根拠を与えてしまう。
犯罪者の親は、その犯罪者を育てた咎で断罪されるべきなのだろうか?犯罪者の子どもは、親の愚行の十字架を背負うべきなのだろうか?劣悪な(と世間的に勝手なレッテルを貼られているだけの)環境に育った子どもは、「普通に」育つことはできないのだろうか?あるいは、苦境の中で育ったことをある種の英雄譚の補強材料として機能させることに必然性があるのだろうか?(あるトラウマが人格形成の絶対的な根拠足りうるのだろうか?)
そうした問いがいくつも想起されるが、これらは全て否である。
もちろん、例えば、障害を抱えた子どもを持つことで想像し得ない苦悩と葛藤に晒され、自らの子どもを殺めるほどに追い詰められてしまう人々がいる、というのは前提にあり、それに対して安易な理解でもって共感を寄せることも避けるべきなのは当然のことである。

前置きが長くなったが、『君が生きた証』はこの2つの問題を統合し、受け入れ難い現実の最中で生きるために、なぜ藝術が必要なのかをギリギリのバランスで提示してみせる。
たとえそれがある人物にとっては、酷薄で救いのない解決だとしても、それに賭けることでしか藝術は存命しない。

ウィリアム・H・メイシー初監督作品!という惹句にどれほどの集客力があるのか疑問に思うところだが、本作の非凡さは、コーエン兄弟ポール・トーマス・アンダーソンなどの作品で、悲哀を滲ませつつも情けない死に様で画面から消えていくウィリアム・H・メイシーの非凡さに近接している。
彼は人生における不条理や理不尽の狭間で苦悩し、引き裂かれ、コミカルにもシニカルにも見える死に様を演じてきたことを首肯するならば、『君が生きた証』で描かれる主題は、まさにウィリアム・H・メイシー的であると呼んで差し支えない。

本作は銃乱射事件を契機としている。実際にその殺戮の光景が描かれることはないが、これは作劇上の要請によるものである。
冒頭、たった数分しか登場しない主人公サム(ビリー・クラダップ)の息子は、銃乱射事件の「被害者」としてまず観客に認知される。
ここで主人公=父親は悲劇の渦中にある登場人物として画面に晒されるのだが、物語の進行に伴い、息子が「加害者」であったことが詳らかにされる。
まずここの提示の仕方が巧妙である。観客が「被害者」の父親として認知しているはずの人間が、本来そうあるべきだろうとこちらが想像している振る舞いをしないし、他者からもそのようには扱われていない、ということが細かな台詞や言動によって示される。
観客はイメージとの齟齬に戸惑い、この物語の主題を掴めないことに困惑し、主人公の苦境を把握できない。
自らが今対峙しているものの全容が理解できないことこそが映画の美点であるとするならば、なんと心地良い困惑だろうか。

父親は自分の育ててきた子どもが無差別殺人という卑劣な行為をしてしまったという残忍な現実に耐え切れず、隠遁生活を送ることになる。
誰にも迷惑を掛けず、誰にも影響を与えず、自分だけが生きる完結した世界。
そんな彼と世界との橋渡しを実現したのは、他ならぬ息子の「音楽」である。
息子がこの世界に残した「痕跡」を、「生きた証」を知ることで、彼は別の人生を始めることができたのだ。

息子の「音楽」を通して初めて、彼は自分の想いを他人に表現してもいいのだと思い至り、その「音楽」を通じて出会った若者クエンティンと蜜月の関係を築いていく。
しかし、そう簡単に過去は消えてくれないし、人の記憶は残酷なほどに鮮明である。
息子の「音楽」があったからこそ想像し得ぬ繋がりをもったはずなのに、まさにその「音楽」のせいで関係性が瓦解してしまう。

息子の「音楽」を演奏し、歌詞を読み、そうして思考の足跡を追体験することで、息子の情動を共有しようとするが、それは無為に終わるだろう。
「共感」とは生半可なことでは達成できない境地だからである。人を殺す人間の気持ちはそう簡単にわかるはずがない。安易な理解は無自覚な暴力であることはもっと強調されてもよい。

余談が過ぎたので本筋に戻ろう。
本作においてここで、犯罪者の「音楽」を演奏し、評価されることは許されるのか?「呪われた」藝術の存在は許されるのか?という問いが、犯罪者の血縁者は犯罪者であり、副次的にその罪を背負う必然があるのか?という問いと重ね合わせで不意に浮上するのである。
そのどちらも断固として否であることは、ここまで拙文を読んでいただければ改めて説明するまでもない。

誰かが「生きた証」は、どんな形であれ他の誰かの「生きる証」になりうる。
たしかに息子は多くの人を直接的にも間接的にも傷付け、あらゆる可能性を踏み躙った。それ自体を擁護することなどできない。だか、いやだからこそ、彼が残した「証」の存在は否定されるべきではない。

本作の結末は、主人公の視点に寄り添うならば、非常に苦々しく救いがない。
息子の「音楽」によって彼は再び言葉を手に入れ、他の全ての人が嫌悪し、無理矢理忘却しようとしている息子の「生きた証」を歌い上げる。ただし、今までのように、息子の「音楽」をそのままリフレインすることで、もう「ここ」にはいない息子の存在を追認識するというネガティブな意味合いではなく、彼自身の言葉で、この一回きりしか許されない鎮魂歌を歌い上げるのだ。
ここで主人公は、自分と息子の「生きた証」=「音楽」との関係に幕を引くのである。もう彼自身が「音楽」と良好な関係を築くことはおそらくない。
と同時にそれは、「音楽」をクエンティンに託し、彼自身は他のあらゆる関係から距離を置くことを意味する。サムは、クエンティンと出会う前の放浪生活をこれから先ずっと続けなければならない。

住処と仕事を手放し、友人との疎外を選択し、唯一残り得た息子との繋がりすらも託して、流浪の民として振る舞うことを余儀無くされる。
映画ではサムの「その後」が描かれることはないが、クエンティンが掴み得た希望とは裏腹に、サム自身の救いが見当たらないのは明らかであり、それは誠実な選択である。

ギリギリのところで息子の「生」を肯定する代償として、自らの「生」を放棄する。
それでもなお彼の「生」を救いうる何かがあるとすれば、それは息子の「音楽」によって偶然お互いの人生が交錯した友人が、音楽を続け、どんな形であれ息子の「音楽」を継承すること以外にない。

もちろんそれは、息子の「音楽」をそのまま受け継ぎ、「記録」として残すという意味ではない。「呪われた藝術」によって開かれた道を、それを理由にして閉ざしてしまうのではなく、いかなる卑下も特権性も拒否し、新たなる「生きた証」を残すという意味における「継承」である。

これ以上付言することはない。
本作品における映画的・音楽的快楽に触れる悦楽は、鑑賞したのみに許される特権である。