2014年ベスト映画

年の瀬ですので、長文ですが、隙間時間にでも。

次点
ダラス・バイヤーズクラブ
『スガラムルディの魔女』
『トム・アット・ザ・ファーム』
『やさしい人』
メビウス
『百円の恋』
『フランシス・ハ』
アデル、ブルーは熱い色
プリズナーズ
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー
ベイマックス
グランド・ブダペスト・ホテル
『ザ・イースト』

10位
アレクサンダー・ペイン
ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅
アレクサンダー・ペインの映画は、ややもすればお涙頂戴の凡庸な感動作になりかねない題材を、それが孕む静かな、のっぺりとした毒をも仕込むことによって見るものに鑑賞後も思考を促し続け、それでいてやはり至上の安寧を与えてくれるのである。
安易な、生温い感動や感傷には流されず、しかしながら、奇を衒っただけの特異性に逃げることもせず、諦観に満ちたシニシズムに溺れるのでもなく、正面から人間/人生を見据えることで、見るものをある個人的な体験/記憶へと連れて行ってくれるのである。

誰が見ても胡散臭い宝くじの当選を信じ、賞金を受け取りにネブラスカまで向かう年老いた父親と、そんな父親にげんなりしながらも同行する息子のロードムービーという、これ以上ないほど簡素な内容であるにもかかわらず、在りし日の思い出が刻まれたアルバムを一枚一枚丹念に捲っていく時のような豊穣さと広がりが生まれていく。

どこにである普遍的な親子の物語が、モノクロの画面に映し出され、停滞していた時間が静かに動きだし、過去の交流が詳らかにされる、たったそれだけでキャラクターが瑞々しく輝き出し、こんなにも見るものの胸を打つのである。

9位
リチャード・リンクレイター
『6才のボクが、大人になるまで。』
2014年は間違いなく、リチャード・リンクレイターの新作が2本、日本で同一年に公開された年として記憶される。
リチャード・リンクレイターは「時間」の映画作家である。『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』『ビフォア・ミッドナイト』の三部作において、表面上はある同一線上の時間軸における物語を展開するが、「時間」を自由気ままに操作し、引き伸ばし、短縮し、飛び越え、「時間」を前景化することで、華麗な時間旅行を提示してみせた。

『6才のボクが、大人になるまで。』でも、12年間を同じキャストで撮影することにより、より映画における「時間」を見るものに意識させる。
いかに「時間」を持続させ、分断し、紡ぎ合わせるかは、おそらく映画がその誕生から常に向き合わせられてきた課題である。
人の人生には伏線回収も、気持ちのいい辻褄合わせも、よくできた脚本もない。しかし、ほんの些細な奇跡は起きうる。それはある人の人生において、意識の埒外にあった他人や出来事が不意に意味や繋がりを帯びる瞬間である。

ラスト手前、母親が長年の澱を吐き出すかのように吐露する言葉が、本作で描かれる「時間の有限性・不可逆性」を象徴している。
「こんなはずじゃなかった!もっと長いと思っていた!」そんな後悔ばかりが人生にはつきまとう。

必ずや自分の人生に決定的な変化をもたらしてくれるはずだと思っていた人が急に人生=物語から逸れ、ただの他人にしか思っていなかった人がささやかな意味をもたらしてくれる、そんな人生の瞬間瞬間を見事に捉えるリチャード・リンクレイターは、時間藝術たる映画の本質を真摯に追い続けるのである。

8位
パク・フンジョン
『新しき世界』
韓国映画が世界的な評価を確実なものにして久しい。ポン・ジュノはBD原作のSF映画『スノピアサー』で、パク・チャヌクミア・ワシコウスカを主演に据えた『イノセント・ガーデン』で、キム・ジウンは、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『ラストスタンド』でそれぞれハリウッドデビューを果たしている。
各々の作品評価はあるにせよ、ハリウッドを席巻する韓国映画界の層の厚さと地力の強さ、常に新しい血を求めて才能ある映画人を躊躇いなく登用するアメリカ映画界の柔軟さに嫉妬を憶える。

『新しき世界』もまた、円熟を迎えつつある韓国映画界から放たれたエポックメイキングな作品であると断言したい。
現代韓国犯罪組織版『ゴッドファーザー』とも呼ぶべき作品であり、韓国血縁社会の禍々しさと暴力性を湛えた作品であり、見るものの神経をじりじりと窶れさせていき、首根っこを強引に鷲掴みにしつつも真綿で絞めるようなげっそりするほどの執拗さで描かれた潜入捜査モノであり、組織の枠組みの中に囚われ、望まない選択をせざるをえなくなってしまった男たちの哀切を漂わせるバディモノである。

今や韓国映画には欠かすことのできない斬新なバイオレンス描写(漏斗でセメントを無理矢理飲ませてコンクリート詰めにする場面のおどろおどろしさたるや!)と緻密なアクション演出も抜かりなく、この作品一本で、今の韓国映画の質の高さを存分に堪能できる。

7位
アレハンドロ・ホドロフスキー
『リアリティのダンス』
アレハンドロ・ホドロフスキーこそ言葉の真の意味において、「アウトサイダー」である。
詩人として、パントマイマーとして、劇作家として、舞台演出家として、映画監督として、バンドデシネ作家として、サイコマジシャンとして、ほとんどありとあらゆる藝術的肩書きを持つホドロフスキーにとって、そうした肩書きが意味を持つことはない。
便宜上そう呼ばれるだけであり、彼はそうした既存の肩書きを嘲笑うかのようにあらゆる垣根を飛び越え、おそらくは唯一ホドロフスキーを表現するに足る「魔術師」として、目眩と幻惑を引き起こす藝術を生み出すのである。
彼の魔術の毒牙にかかれば、全ての現実が、幻想が藝術として再誕する。

本作は彼の自伝『リアリティのダンス』(現実と幻想を綯い交ぜにし、晦渋でサイケデリック文体で読み手の理解を拒み、しかし、その理解を超えた先にある陶酔に読者を連れて行く稀有な文学作品)の映像化である。
自らの人生=過去をマジックリアリズム的な手法によって脚色し、捏造し、事実を誇張し、現実を歪曲することによって、自らを神話世界の登場人物として再生してみせる。
映画を完璧なメディアとみなし、全てを包含する豊かさを孕んでいると語るホドロフスキーの言葉通り、『リアリティのダンス』で現実と幻想の撹乱によってもたらされる豊穣さは、贖罪と救済を歪な形で与えてくれる。

「芸術家の至上の役割は、祝祭を創りだすことではないのか」と語り、「人を癒さなければ、芸術ではない」とまで断言するホドロフスキーの映画は、無意識は象徴や暗喩を受け入れ、それらに現実の出来事に対するのと同じ重要性を与えるというサイコマジックの前提を経て、見事に「祝祭」の、「治癒」の藝術に昇華しているのである。

6位
マーク・ウェッブ
アメイジングスパイダーマン2』
2014年に公開されたヒーロー映画は純然たる娯楽映画として、そのどれもが超一級の作品ばかりである。

キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』は、超高密度のポリティカルスリラーであり、なにより実写映画における肉弾戦アクションをネクストレベルに引き上げ、大作映画ならではの外連味も失わないアクションシーンのつるべ打ちに、失神してもおかしくない。見終わった後に、「キャップ、あんた最高だぜ!」と親指立てたくなるぐらいキャプテン・アメリカがカッコ良く描かれており、数多いるマーベルのヒーローの中でもキャプテン・アメリカこそが最高なんだと信じて疑わないファンからすると、もう全てがパーフェクトなのである。

X-MEN:フューチャー&パスト』では、映画版『X-MEN』シリーズの生みの親ブライアン・シンガーが『X-MEN』という題材と本気で向き合った結果、紆余曲折ありつつも辿り着いたある一つの終焉があのラストの風景だとするならば涙する他ない。
今まで『X-MEN』シリーズで積み重ねられてきた登場人物たちの関係性を、その逡巡も葛藤も矛盾も友情も愛情も信頼も敬愛も全部ひっくるめて肯定しつつ、あれだけの苦しみと孤独を背負わされ、絶望と失意に耐え、それでも一縷の望みに善意を託すなら、優しさと美しさに包まれた未来を少しぐらい夢見てもいいじゃないかというブライアン・シンガーの気概に触れれば、本作の設定上/物語上の欠点などまるで気にならない。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は、今まで星の数ほど作られてきた『スター・ウォーズ』の変奏としてのSFアクション・スペースオペラとは異なり、新時代の幕開けを告げる宇宙冒険活劇である。
故郷も家族も普通の生活も失った負け犬たちの崖っぷちからのワンス・アゲイン物語を軸に、画面に横溢するセンス・オブ・ワンダーの数々が、忘却されてきた過去のアイコン・音楽とともに再生される時、最高にゴキゲンな映画が誕生し、最高にクールなヒーローたちが世界のピンチを救う。
小気味よさとユーモアと快楽とヒロイズムに満ち溢れたスペースオペラを現代に蘇らせ、創り上げたジェームズ・ガンは途方もなく偉大な映画作家である。

ベイマックス』は、アニメーションの視覚的快楽を1秒たりとも失うことなく、「オタクがオタクのままヒーローになる=自らの内にあるヒロイズムを選択する」物語を真っ正面から描き切る、つまり、ディズニーとマーベルそれぞれの最良の部分であり本質を、過不足なく破綻なく集約させ、しかも老若男女問わず楽しめる突出した作品である。
映画の始まりから終わりまで、常に多幸感に包まれた画面で展開されるヒーローの誕生譚は、過去の様々なヒーロー映画の要素の踏襲にすぎないと言われればそうかもしれない。
しかし、それらをより広範囲の客層に響かせるのがディズニーとマーベルの矜恃であるし、そここそが最も評価されるべきである。民衆を置き去りにし、人助けも忘れてヴィランを倒すだけのヒーローが愛されないのと同じように、観客を置き去りにし、「大人向け」「哲学的」「現代的」などといったエクスキューズで粉飾されたヒーロー映画もまた、愛されるはずもない。
また、『アイアンマン』でトニー・スタークがそうであったように、自分でなにかを想像し、創造し、工夫し、加工し、修復できる人こそがヒーローたりえるのだし、そのために勉強することは最高にクールなことなのだ。
未だに勉強すること/何かを好きでい続けることをかっこ悪いこととして捉え、嘲笑し、愚弄し、ガリ勉/オタクなどといった表面的で画一的なキャラクター造形しかできないとすれば、それは「恥辱」以外何物でもない。

2008年『アイアンマン』以降のマーベル・スタジオズは映画製作会社として、他社の追随を全く寄せ付けない興行的・批評的成功をおさめているが、それぞれが違うベクトルでパーフェクトなヒーロー映画をここまで連発されると、ベストテンの半分がアメコミ原作のヒーロー映画になってしまう(『キャプテン・アメリカ/WS』も『X-MEN:DoFP』も『ガーディアンズ〜』も『ベイマックス』も入ってないベストテンなんて我ながらどうかしてる!)ので、理屈と感情を捏ねくり回して一作だけ選出。

アメイジングスパイダーマン2』は、文字通り「アメイジング」なヒーロー映画である。
前作において過剰な丁寧さで積み上げられてきた伏線がカタルシスを醸成し、ヒーローの成長譚(=挫折と再生)、ヴィランの誕生譚、恋愛/友情映画としての甘酢感、ニューヨークのビル街を縦横無尽に飛び回る臨場感と爽快感抜群のアクション演出、全てに「スパイダーマン」ならではの工夫が熟されており、ヒーロー映画かくあるべしといった作品になっている。

他のマーベルヒーローとスパイダーマンの一番大きな違いは、どれだけ世界の危機を救おうがスパイダーマンは「ニューヨーク市民」のヒーローであることではないか。だからこそ「親愛なる隣人」スパイダーマンニューヨーク市民を救うことを第一義的問題として捉え、その結果として民衆から愛され、喝采を受けるヒーローになっていくのである。
そして、ヒーロー映画において「人命救助」は何よりも重要な要素である。クリストファー・リーヴ版『スーパーマン』が今なお世界中で愛されているのは、作中描かれるスーパーマンの選択/行動が徹頭徹尾「人命救助」と結びついているからであり、「人命救助」を疎かにするヒーローが愛されるはずがない。

生死を賭けた闘いの最中で軽口を叩き、冗談を飛ばし、待ち伏せの時間にiPhoneでゲームをする、そんなユーモアと愛嬌に溢れる本作のスパイダーマンも、どれだけ軽薄に見えても「人命救助」を蔑ろにすることはない。
周囲の愛する人々への思いやりが強過ぎるからこそ、スパイダーマンは悩みを共有できるはずの人に自らの秘密を伝えることができず、それが巡り巡ってある悲劇的な末路に繋がっていってしまうのである。

「大いなる力には大いなる責任が伴う」は『スパイダーマン』シリーズの一貫した命題であるが、ともすればダークサイドに堕ちてしまいかねないほどの残酷な現実に直面し、苦悩し、葛藤し、それでもそんな暗部をひた隠しにして、飄々と、軽快に、時にお気楽さすら垣間見せつつも件の命題に殉ずるスパイダーマンの、ヒーローとしての業の深さを改めて思い知らされるに至る。

余談になるが、
「僕の道と君の道が違うはずがない!僕の道は君だ!」
こんなありきたりな、気恥ずかしくすらなる台詞に嗚咽させられるとは思ってもみなかったが、この愚直さは清々しく、心地よい。

5位
ワン・ビン
『収容病棟』
ドキュメンタリー映画作家は映像の暴力性を生身の人間に突き付け、時に人権すらをも剥ぎ落とし、人間の内面を露わにし、世界の暗部を抉り、そうすることによって人間の覗き見的欲望を充たす、言わば呪われた藝術家であり、「冥府魔道に生きる」を体現することを厭わない覚悟がなければ、その存在自体許されるはずもない。
人間にカメラを向けるとは、それぐらい過酷な作業なのである。

それも世間から誤解され、疎外され、忌避される存在にカメラを向ける時(語弊を恐れずに言えば、覗き見的欲望を充たすには最良の題材)、本作においてそれは中国・雲南省の「隔離病棟」に収容された人々であるが、ドキュメンタリー映画作家は映像の暴力性に対する自覚と生死に関わる倫理観を否が応でも突きつけられるのである。

ワン・ビンは被写体を至近距離から撮影することはせず、ある一定の距離を保つことで、あらゆる感情をフラットに静観する。だからといって中立・客観性を気取るわけでもなく、自らに課した枷を逆手に取り、その「不自由さ」の中でこそ際立つ「自由さ」を獲得し、時にズームで「寄る」ことで、時に映画の文法を無視するかのような素振りでカメラを動かすことで、微細な感情の変化や各人の行動を記録していく。カメラの存在が消え去っていく過程を経て、4時間近い、気が遠くなるような記録の積み重ねの果てに、ワン・ビンにし描けない「世界」を立ち上がらせてしまうのだ。

本作は「精神病院」に強制的に収容された人々を被写体としているが、彼ら彼女らを所謂「精神病患者」として一括りにすることはできない。
だからこそ「収容病棟」なのである。
暴力的/非暴力的な患者、法的に精神病のレッテルを貼られた者、アルコール/薬物中毒者、政治的な陳情を行なった者、一人っ子政策に違反した者、強制収容されたことで精神が狂ってしまった者、様々な人々が「精神病患者」として無理矢理カテゴライズされ、治療を目的とした「入院」ではなく、臭いものには蓋をせよ的な論理によって「収容」されてしまう。
イデオロギーの喧しい主張などすることなく、国家/政府の暴力性を静謐に暴き出しつつ、同時に劣悪な環境で生きながら、いやそこで生きるからこそ人間の愛に飢え、プリミティブな衝動と欲望を剥き出しにする人々にそっと寄り添うワン・ビンの視線は、誰よりも冷徹で、誰よりも柔和である。

4位
デヴィッド・フィンチャー
ゴーン・ガール
デヴィッド・フィンチャーの最新作は、ジャンルの横断ではなく、ジャンルの融和によって見る者を当惑させる。
既成の枠組みを拒否するかのように変容していく映像の連なりは、見る者をちっぽけな想像の埒外に連れ出していく。

ソーシャル・ネットワーク』以降のフィンチャー映画が常にそうであるように、本作も映画自体のルックを裏切る形で、純然たる愛が描かれる。
重厚な人間ドラマなどという愚鈍さは微塵も感じさせず、ジャンル映画における悪い意味での諦観もなく、人間の本質を、狂おしいほどに人を愛することのどうしようもなさを、その愛に殉ずるために行使される人間の狡猾さを精妙な手捌きで解体し、提示してみせる。

本作の入り口は愛する妻の失踪によりメディアに踊らされ、果てには妻殺しの疑いをかけられた男のミステリーでよい。間口は広くすべきだ。
しかし、デヴィッド・フィンチャーという監督は、そこに留まる気などさらさらないのである。
だからこそ『ゴーン・ガール』が突き付ける問題提起は見るものに鋭く、重く、深く刻まれ、色々な側面からの思考を促され続けるのである。
夫婦という「最も身近な他人」の理解不可能性、役割を演じることへの自覚/無自覚と共依存、他者からの評価でしか自分の存在を肯定できない人間、薄皮一枚剥ぐだけで今まで見て見ぬ振りしてきたものが立ち上がる。なんと鮮烈な解剖だろう。

触れただけで崩壊しかねない危うげな薄氷を軽やかに、スマートに渡り切った最果てにフィンチャーは問いかける。人はなにを信じ、なにを愛し、なにを演じるのかを。

3位
マーティン・スコセッシ
ウルフ・オブ・ウォールストリート
舞台はアメリカのトチ狂った金融業界、実在の株式ブローカージョーダン・ベルフォートの回想録を原作に据えた本作は、全編がドラッグ&セックス&金で彩られ、不謹慎と反道徳の限りを尽くした気狂いたちの狂想曲である。
まともな感性、常識、知性、良識、公序良俗なんてものは、キレキレのスコセッシ世界では全く通用しない。

グッドフェローズ』『カジノ』を撮り上げた頃の若々しさは未だに衰えを知らず、金とドラッグに溺れ、蕩尽し、悪態を繰り返し、それでも成り上がるために周囲の人間に「FUCK!!」と中指突き立てる痛快さに心が踊る。
成り上がってなにが悪い!金を稼いでなにが悪い!人を騙してなにが悪い!と、ここまで大上段に開き直られると、スーっと溜飲が下がるのである。
映画は、本来であれば誰からも忌み嫌われ、嫌悪され、見放されるような最低最悪の人間のどうしようもないほど下劣で低俗な人生にさえ、心を鷲掴みにされ、感情移入をさせてしまう不思議な装置なのだ。

ラスト、安全圏でこの映画をゲラゲラと笑い飛ばしてきた観客にスコセッシはドス黒く鋭利な刃物を投げつけてくる。
本作の主人公をクズだの最低だのと断罪していい気になってるそこのお前!お前!お前!
お前らこそが、実体をもたない空疎な金に踊らされて、あるはずのない金に駆られて欲望丸出しにして、色気を出してバカみたいに加担するんだ!
自らもまた加担者であることに無自覚な人間の方がよっぽどタチが悪く、そんな善人面を引っぺがして人間の欲望を丸裸にするスコセッシの聡明な悪意に戦慄する他ない。

2位
クリント・イーストウッド
ジャージー・ボーイズ
アメリカのロック&ポップスバンド、フォー・シーズンズの結成、成功、解散までの道程を老獪かつ鮮やかな手腕で紡いでいく。
映画が誕生してから最も蜜月の関係にある音楽が、映画と最上の関係を結ぶ時、見るものは映画のありうべき理想像を夢想するのである。

グラン・トリノ』でアメリカ映画の終わりを突きつけ、それでもなお継承されるものとしてのアメリカ映画を提示したイーストウッドが、現役最高の映画監督として今もなお君臨してしまっていることへの怯懦と畏敬なくして、アメリカ映画と対峙することはできない。

質の高い演技のアンサンブル、無駄のない構図、キレのある編集、音楽の入れ方、含みのある語り口、題材へのアプローチの仕方、青春群像劇としての完成度の高さ、オリジナルのミュージカルに最大限のリスペクトを込めた映画ならではの再構築、ラストの大団円、全てを老練な手腕で纏めあげるイーストウッドに死角など見当たらない。

これが映画なのだと言わんばかりに繰り出される映画的享楽の連打に陶酔し、驚愕し、打ち拉がれ、彼の新作を今後も(少なくとも次の作品は)見ることのできる歓びを噛みしめるだけでよい。


1位
ジョエル&イーサン・コーエン
インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌
本作に関しては長文で感想を書いたので、詳細はそちらを参照していただきたい。
http://d.hatena.ne.jp/kiiikuuu908/touch/20140704/1404453361

世界でこの映画/この人間を理解できるのは自分しかいないのではないか、という夜郎自大と恐怖、孤絶(そんなものはただの傲慢に過ぎず、肥大した自意識を制御しきれない愚かな人間の妄言なのだが)を経験してしまった立場からすれば、生涯心の奥底に留めておきたいと切実に願った、他の何にも代え難い映画である。

思いがけぬ邂逅が、ゆくりなく訪れる遭遇が、人の人生に微かな意味を与え、自らの与り知らぬところで継承され、波及していく。幾多もの敗北と消失を潜り抜け、時代も地域も国家も人種もなにもかもを超えて、媒介者として映画は、藝術は生き延びるのだ。

なにかを語り、歌い、描き、踊り、書き続ける限り、それらがたとえ断絶の危惧に晒されたとしても、引き継がれる意思があり、積み重ねられる表現があり、それこそが生きる技藝としての藝術であり、人間の最も優れた能力なのだと、改めて確信するに至る。