『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』 螺旋型の浮上への永遠の停滞

無性に自らの人生を否定したくなることがある。
それが故なきことだと知っていながらも、自らの境遇を嘆き、他者を羨み、悪態をつき、そんな自分を肯定してくれる人ですら傷付け、それが自らを傷付け、延々と堕落していく他ない循環を巡る。
完全に閉じて、どこにも逃げ場はなく、螺旋型の上昇もない、そんなルーティンが永遠に続くのかと思うとうんざりし、全てを投げ出したくなる。
「自分は、生活のために自尊心まで安売りするあいつらとは違うんだ、最後まで理想形を追い求め、その過程でどれだけの人に迷惑をかけようが、傷付けようが、そんなものはちっぽけなことで、つまらないリアリストの戯言だ。」
そう強がってみせても、この停滞した一日と地続きの人生は、生きづらく、すぐにどん詰まる。

こんなことを考えたことのある人にとって、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』は劇薬であり、消し去れない傷痕を残してくれるだろう。
それを閉塞し乾ききった日々を打開する微かな希望ととるか、抗ったところで何の変化も訪れない絶望ととるかは鑑賞者に委ねるとして、厳しさと優しさを危ういバランスで同居させるコーエン兄弟の視線に、彼らの円熟が滲み出る。

コーエン兄弟にとって世界は不条理であり、人間は不可思議な存在であり、それを過剰に拡大したりつぶさに観察することで、笑いと恐怖が混在する独特な世界を屹立させるのである。
彼らを評するのに、「シュール」という言葉が使われがちだが、このなんでもござれの屑籠的概念になりつつある言葉に収斂させるのは相応しくない。

1961年、ニューヨーク。
身も心も窶れさせる厳しい寒風が吹き荒ぶグリニッジ・ヴィレッジに生きる「汚辱に塗れた人」ルーウィン・デイヴィスはフォークソングのシンガーである。
一文無しで友人の家を転々とする彼の一週間を捉えた、非常にミニマムな物語。
細部の積み重ねにより徐々に提示されるルーウィンの悲痛な過去、閉塞感漂う現在から、彼のいない未来への不意の飛翔へ。

多くの方が指摘するように、本作では、「道」「扉」「猫」が象徴的に画面に配置され、それらが多くを代弁している。

驚くほどの単純さなので、わざわざ言葉にするのも野暮なことだが、その日泊まる場所を探してとぼとぼと歩く、あるいはヒッチハイクで乗ったオンボロ車で目的もなくひた走る、ルーウィンが通る「道」は彼の「人生」そのものだ。
この「道」はどこまで続くのか、この「道」に終着点はあるのか、延々とこの「道」を堂々巡りするしかないのか、昏くぼやけた「道」の果てが見えない。

シカゴでの偶然の出会いに際して、今まで自分が直視せずにいた現実を突き付けられたルーウィン(あの演奏の後に無惨にも放たれる「ある言葉」には、コーエン兄弟的な現実の不条理を体現し、見る者にも失意と絶望を突きつける)は、ニューヨークに戻る道すがら、寝ぼけ眼で街の光を幻視する。
実際それは現実に存在するものだとしても、ルーウィンの視線を通じて見えるそのぼやけた小さな光の集合体は、なにかこの世ならぬ場所に思えて仕方が無い。
その「街の光」に通じる「道」もある。ルーウィンはそれに目を奪われ、明らかに目視するのだが、その「道」に逸れることなく、今まで自分が来た「道」をそのまま走り抜けてゆく。

彼は「別の道=生き方」を選択することができない。自らを苦しめる閉塞した「道」のすぐそばに、この停滞した日々を変革しうる「道」があることを認識しつつ、それでも惰性に引っ張られてしまい、抗うことすらできない。
そんなルーウィンの人生を象徴する場面であり、これほどの誠実な哀切をいくばくかのシニシズムも纏わせず描く本作の監督は、本当に自分が知っているあのコーエン兄弟なのかと邪推したくもなる。

「扉」はルーウィンの人生における変化の契機として存在する。
彼がなにか行動を起こす、それは常に「扉」を開けて外に出る/中に入るという動作が起点にあり、彼が定住地を持たず、友人の家でその日しのぎの生活をしていることと深く関係している。
彼が「扉」から出るたびに、見る者はささやかな変化と希望を感じるが、ちょっとした物語を経て彼が同じ「扉」に入るのを見て、結局いつもの地点に戻るしかないのかという失意に打ち拉がれる。
まるでその繰り返しが人生だと言わんばかりに、希望と熱意は絶望と失意に成り果て、それでもその微かな光を追うことでしか、日々を繋ぐことができない、ということがおそらく映画史でも類を見ないほど多くの「扉」から出る/入るを捉えたショットの積み重ねによって提示されるのだ。

「猫」は端的に、なんの衒いもなく、「自由」という概念を具現化した存在と言ってしまえるだろう。
「猫」は「道」も「扉」も関係なく、自由気ままに街を闊歩し、「道」に雁字搦めになったルーウィンを翻弄する。
そのあまりの自由さに彼は困惑するが、彼の子かもしれない子を身籠った女性との真剣だが、はたから見るとユーモラスですらある言い争いの途中で断ち切ってまで、「猫」を追い求める。
映画の中で「猫」は不意にいなくなり、偶然とはいえやっとルーウィンの手許に戻ってきたと思ったらそれは違う「猫」であり、自分の与り知らぬところで再び現れる。
自分にはない「自由」を謳歌する「猫」に、ありうべき理想の自分を重ね合わせるルーウィンが、「猫」に恋い焦がれ、固執するのは必然である。
飄々と軽快に、自らに向けられた想いなど意に介さず、縦横無尽に駆け抜ける「猫」は、この逃げ場のない停滞した日々を描く作品において、柔らかく吹き抜けてゆく風のような存在であり、一種の清涼剤として、見る者に少しばかりの安寧を与えてくれる。
と同時に、「猫=自由」に追い縋るルーウィンの滑稽さと悲惨さが浮き彫りにされ、より彼の逼迫感が伝わってくるのだ。

本作のラスト、コーエン兄弟はルーウィン・デイヴィスのモデルとなったデイヴ・ヴァン・ロンクへのリスペクトと思しき、小さな希望を用意する。
それはルーウィン自身が気付くことのない「継承」の萌芽であり、退屈な反復が唯一意味を持ちうる螺旋型の上昇であり、今なお続く系譜の誕生の瞬間である。
なにかを語り、歌い、描き、踊り、書き続ける限り、それらがたとえ断絶の危惧に晒されたとしても、引き継がれる意思があり、積み重ねられる表現があり、それこそが生きる技藝としての藝術であり、人間の最も優れた能力なのだと、改めて確信するに至る。

もっともっと語り尽くしたい細部(特にオスカー・アイザックキャリー・マリガンの演技、会話の妙たるや!)があり、そこを掘り下げることこそが本作のきもなのだが、それは鑑賞者のみの愉しみとしてとっておくべきだろう。
ここまで他人事とは思えない映画もなかなかなく、今のタイミングで見た『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』は、生涯心に留めておかなければと心底思う。