Allez vous faire foutre

ジャン=リュック・ゴダールの処女作たる『勝手にしやがれ』(原題『息切れ』)での冒頭ワンシーン。
ジャン=ピエール・ベルモンド扮する主人公ミシェル・ポワカールが盗んだ車でハイウェイを疾走しながら、突然カメラに向かって毒づく。「もし海が嫌いなら……もし山が嫌いなら……勝手にしやがれ(Allez vous faire foutre)」
この名訳は『勝手にしやがれ』の日本公開題名の命名者である秦早穂子がこの見事な邦題を思いついたことから生まれたものと言われている。実は、フランス語の「Allez vous faire foutre」には「出て行け」「消えちまえ」「とっとと失せろ」といった訳はあるものの、「勝手にしやがれ」という訳はどんな仏和辞典を引いても存在しない。
この逸話は山田宏一著の『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』からの引用だ。この話を初めて読んだ時に僕は打震えた。なぜか。一般に翻訳はある言語から別の言語への変換作業であろうからそこには少なからず“誤読”が生じる。これは非常に厄介な問題であり、かつ翻訳という行為の本質上避けることはできない。だとしたら、日本語しか理解できない僕のような人間はどうしたって別の言語で語られる映画を完璧な状態で、作り手が意識したようには享受することはできないのではないか。作り手と作品から自分に至るまでの経路に“翻訳者”という他者を介在する限り、真の意味においてはその作品を観たことにはならないのではないか。そんな風にかつてから思っていた。とりわけ映画の字幕は時間上表記上の制約(通常はセリフ1秒に対して3〜4文字、一度に表示される字幕は20文字までが基本。1行あたりの文字数は、かつては13字だったが現在では10字)から、元々の会話の情報量を切り詰めなければならないので、厳密に正確な翻訳を期待することは難しい。長い間抱えてきたそんなことへのジレンマをこの「勝手にしやがれ」を巡る逸話は払拭してくれた。それは意訳が素晴らしいとかいう次元の話ではない。なぜなら前述したように「勝手にしやがれ」は邦題ありきの字幕だからだ。秦早穂子は撮影中のラッシュ試写の一部を観たことからこの邦題を思いついたとのことだが、彼女はこの映画の日本語字幕に、つまりは日本公開版に生命を吹き込んだと言っていい。彼女自身が「Allez vous faire foutre」に「勝手にしやがれ」という訳を充てたかどうかは定かではないが、彼女の邦題によって「Allez vous faire foutre」には「勝手にしやがれ」という実際にはありえない、それでいてこれ以上ない日本語が与えられた。ここである種の飛躍が生じたのだ。言語と言語の間に隔たる圧倒的な断絶、拭い去れない“誤読”の余地を完全に消失させることは原理的に不可能である(それは世界中の人々が同一の言語を使うことを意味するから)。そうではなく、むしろその断絶を押し拡げることで、より極端に言うなれば言語から言語への飛躍をさせることで、本来存在しなかったはずのものを不意に露わにし、そしてそれは美しくも雄弁にその作品そのものを物語ってしまっている。今まで永遠に手が届かないと思っていた対岸が急に手の届く範囲に近付いた気がした。それは偶然かもしれないし(というよりも偶然だからこそその飛躍は為し得たのだろうが。ちなみにここでいう“偶然”は論理的な思考の果てにある賭けの結果としての偶然である。)、必ずしも成功するものでもない(日本語⇔外国語の翻訳のジレンマは今だって当然付き纏う)。それでも翻訳が孕む歪さを肯定的に捉えられるようになった。ありがたいことだ。


ということで、このブログには彼女らにリスペクトを込めて“Allez vous faire foutre”という名を与えることにしました。もちろん話の流れから言ってそこは“勝手にしやがれ”とつけるべきなんですが、ちょっと気が引けてしまったので。いつか自信を持ってその名を冠することができるようになりたいものです。最初なんでお堅い文章で書いてみましたが、疲れるので今後はお気楽にやってきます。基本は備忘録を兼ねて映画の感想なり何なりを書いていきたいなーなんて。どんな映画にだっていい部分はある!屁理屈はスポーツ!かぶれることを恐れない!を信条にのんべんくらりと。若輩者ですので事実誤認などありましたら御指摘していただけると幸いです。