『ザ・フューチャー』と『ばしゃ馬さんとビッグマウス』〜映画における「35歳問題」〜

映画における「35歳問題」は非常に根深い。
この話をするためには、まずその前提となるティーンの問題を避けて通れないのだ。
映画には、ジョン・ヒューズの一連の作品を嚆矢とするアメリカ学園モノというジャンルがある。
アメリカの高校生は、ティーンという多感な時期に雑多な人々が跋扈する学校に押し込められ、その中で明確な格付けをされる。
基本的には受験による選別ではなく、その地域ごとの高校に進学することを余儀無くされるアメリカでは、この格付けが高校生活の明暗をくっきりとわけてしまうのだ。
この格付けが残酷なのは、親の経済力まで如実に反映されてしまうからだ。個々人には、それも親の財力に頼らざるを得ないティーンにはどうすることもできない格差が存在し、彼ら彼女らを雁字搦めにする。
この学内ヒエラルキースクールカーストー映画『桐島、部活やめるってよ』の批評において、無造作に乱用され、もはや陳腐な言葉に響いてしまうかもしれないがーを生み出し、各々のカーストには途方もない断絶がある。
そしてその断絶が深ければ深いほど、それを飛び越えたカースト間の交流や、下位カーストからの上位カーストへの反抗が物語的カタルシスを生み出すのである。
前者であれば『ブレックファスト・クラブ』、後者であれば『アニマルハウス』がいい例だろう。
上質のアメリカ学園モノがどの時代においても輝きを失わず、鮮烈に見る者に響くのは、酸いも甘いもすべてひっくるめて「ティーン」を描いているからに他ならない。
もちろんそこには「青春」が否応無く関わっており、「青春」をどう捉え、描くかは「ティーン」を描く上での至上命題と言っても過言ではないだろうが、ここでその問題に足を踏み込むと、話があまりに膨らみ過ぎてしまうので、今回は省くことにする。
今年は『クロニクル』と『ウォールフラワー』という両極端な青春映画の傑作があったので、青春映画についてはいつかまとまった文章を書くことにしよう。

ティーン」とはなにか?
映画における「ティーン」を定義するとすればそれは、「なにものでもない者が、なにものかになるために、今いる世界から一歩を踏み出すまでの準備期間」、あるいは、「自らがなにものでもない、という現実を受け入れ、なにものかになるために自らを見つめ直す期間」であろう。
ここで強調したいのは「ティーン」は十代に限らない、ということだ。
たまたま十代が、この「ティーン」問題を抱えることが多いだけのことで、それはいくつになっても人の自意識に付き纏って離れない。
学内ヒエラルキーティーンの葛藤と苦悩を描いた映画を見て、「あぁ、自分の学生時代もこんな感じだったなぁ」と追懐するだけで終ればどんなに気が楽になるだろうと常々思う。
そこで描かれる問題は今もなお自分が抱えている問題であり、いつまでこの憎悪と愁訴と鬱屈を抱え込んだまま生きていかなければならないのだろうかと絶望を感じる。

ティーン」に特徴的なのは、無根拠な全能感とそれと表裏一体の他者、世界への嫌悪と絶望である。
自分はまだなにものにでもなれるという思い込みは、世界のカラクリと折り合いをつけて「うまく」生きるだけの無能な他者への嫌悪となぜ世界はこんな自分を受け入れてくれないのだという絶望に転化し、所詮世界はこうなっているという自堕落な諦念と自らの才能の無さへの呪詛に成り果てる。
ティーン」にとって「世界」とは自分が生きるこの半径3メートルの世界であり、そこから逃げ出す術を知らない。
そこから一歩踏み出せば、どれだけ多くのことが可能になるのかということが考えられない。
自分がこうなりたい思う理想像はある。それに賭ける熱意もある。しかし、そこに至るまでの経路はたった一つの道しかないという視野狭窄に陥ってしまうので、その道から外れた時になにをしたらいいかわからない。
それにそういう社会や大人が作り上げた既存のレールに従うことへの幼い反抗心もある。
そうこうしている内に十代は終わり、不本意なまま社会に投げ出され、着たくもないスーツを着て、締めたくもないネクタイを締め、スッポリと社会の枠組みの中に収まってしまうのだ。
それでも本心では納得はできていないから、会社や家族のためにと自分を押し殺して勤勉に働く人間を軽蔑し、既存のレールから外れて自由気ままに生きる人間に羨望を抱きつつも、いつまでも若者気取りの能天気なやつらだと罵声を浴びせる。
そのどちらも否定することでしか、今の自分の不甲斐ない生を肯定することができない。
それこそが最も惨めでつまらなく、凡庸な生であることに気付くことがない。
自閉しきったままでどこにも出口が見当たらない。逃げることもできない。身動きがとれない。
結局のところそれは自意識とどう向き合うかの問題で、自意識をこじらせ続け、結論を先延ばしにした結果、そこにはもう35歳が口を開けて待ち構えているのだ。
「なにものかになれる」という淡い期待が肥大化することで産まれた「なにものにでもなれる」という幼児的な全能感が、他者への羨望を侮蔑と憎悪に変え、自らの出自を怨むことで、今の惨めな生に無理矢理根拠を与えようとする。
その醜くぶよぶよとした自意識を超克し、「なにものでもない」自分を、その残酷だが当たり前の現実を受け入れることで、人は「ティーン」から脱却できるのだ。
とすればこの「ティーン」は年齢によって区分されるべきなにかではない。

やっと本題に入ることができる。
映画における「35歳問題」とはなにか、ということである。
前述したように、「35歳問題」は「ティーン」が抱える問題の延長線上にある。
自意識を拗らせ続けて気付いたら「35歳」になってしまった!
十代や二十代だったら、「ティーン」が抱える問題に悩み、苦しみ、日常を憂いても、まだ先がある。いつかそこから脱却し煌めく未来へ飛躍することができると信じることができる。
しかし、35歳を迎えた人間にとってこの自意識の拗らせは、日々の逼迫感と閉塞感を増長させるだけだ。もしこのままの生活が続くなら、それは今までの惨めでつまらない生の持続でしかない。

こんな台詞を引用しよう。
「5年後にはもう40歳。40歳なんてほとんど50歳だ。その後の人生には微妙な変化しかない。」
映画における「35歳問題」のどん詰まり感を的確に言い表した見事な台詞である。
この台詞は、ミランダ・ジュライの『ザ・フューチャー』の中で印象的に使われ、この台詞を契機として物語が動き出す。
『ザ・フューチャー』の登場人物たる恋人のジェイソンとソフィーは4年間の同棲生活の中で、言い知れぬ退屈に駆られている。
このまま人生を終えてしまっていいのかという不安が二人を絶えず支配している。
怪我をした野良猫=パウパウを引き取ることにした二人は、パウパウを引き取るまでの30日間を人生で最後の猶予期間にして、自分のやりたいことをやりたいようにやろうと約束する。
前述した台詞の通り、35歳を境にして、人生には微妙な変化しか訪れない。これは二人にとって最も恐れていることだ。なんとかして現状を打破しない限り、自分の人生が無意味なものになってしまうという焦慮がじわじわと心を侵食してくる。
二人は、「理想の自分」になれずにいる「今の自分」に後悔と苛立ちを抱えており、その惨めで停滞した生から脱却するために、人生で最後の自由な時間を設けて、今まで理由をつけて諦めてきた「理想の自分」になるための行動を起こすのだ。
しかし、そんな簡単に決定的な変化を人生にもたらすことはできない。
退屈な仕事を辞め、自分のやりたいことに邁進しても、それを望んでいたはずなのに、なにもうまくいかない。
ソフィーはかつての親友たちが妊娠し、子供を産み、その子供が子供を産む「未来」を幻視し、幸福な自分の未来を描けないことを不安に思う。
ジェイソンはソフィーが自分の元から離れていく現実を受け入れられず、「過去」に取り憑かれてしまう。
現実と幻想の境界線が徐々に掠れ、破線になり、そのどちらでもあるがどちらでもない瞬間を描き出すマジックリアリズム的な演出には、ミランダ・ジュライの映画監督としての才覚が存分に発揮されている。
ソフィーは不定形な「未来」に不安を覚え、ジェイソンは幸福な「過去」に固執する。
二人は共に、「今」を、「今の現実」を受け入れることを恐れているのだ。
変化を望んでいたはずなのに、その変化ゆえに露呈されてしまった残酷な現実を見据えることができず、不安に慄いていた二人はパウパウのことを忘れ、死なせてしまう。
二人にとってパウパウは寄る辺ない日常の中で唯一絶対的な指針であった(パウパウはこの映画を神的な視点から眺め、物語る存在でもあるのだ!)。
30日後にはパウパウを引き取るという明確な目的があったから、その時まで自由を模索することができたのだ。
パウパウ=縋るべき絶対的な根拠を自らの過失で喪ってしまった二人は、自らの歩みで人生を進めるしかない。
ここで不意に、ソフィーがお気に入りのTシャツを身に纏い、摩訶不思議なダンスを踊るシーンが映される。そして、その滑稽で惨めな姿を見た人は、彼女をせせら笑う。
「自意識過剰なソフィーが外の世界が見えない状況で踊ることは、自分が何者でもないことを受け入れること」と監督のミランダ・ジュライ自身が言うように、大人になるためには、後悔と怨恨に塗れた「なりたい自分」幻想を捨て、「なにものでもない自分」を自覚しなければならない。
「35歳」はその自覚を可能にする最後の年齢なのだ!
なにものでもない自分を受け入れて、どうにかして他者と繋がろうとすることこそが、甘美でほろ苦い大人への成長であり、それがどんなに不器用でみっともなくても、他者との繋がりはそこからしか始まらない。
『ザ・フューチャー』は「ティーン」の問題に、肉体的社会的に大人になった後も悩み、苦しみ、もがき続けてきた人間が、「35歳」以後の人生の始め方を見つけるまでの、ささやかだが希望ある「未来」への一歩を踏み出すまでの映画なのである。

『さんかく』でその後の将来を期待された吉田恵輔監督の最新作『ばしゃ馬さんとビッグマウス』もまた、この「35歳問題」にがぶり四つで取り組んだ作品だ。

「35歳」という年齢はなにかを新しく始めるには遅過ぎて、なにかを諦めるには早過ぎる、微妙な年齢だ。
いつまでも今の凡庸で誰にでも代替可能な生活を続けていいのかと思い悩むが、今まで積み重ねてきたものをもろとも放棄するには、それらはあまりに重たく人生にのしかかってしまっている。
また、ひとたび手を放せば、たしかに別の生を享受できるとわかってはいるが、今の安寧すらも捨ててしまうには躊躇いがある。
信条として反復は恐れていないので何度でも書くが、十代から拗らせ続けて35歳になった人間の拗らせは生半可なものではなく、その袋小路から抜け出すことはほとんど不可能だ。
とっくに自分の才能の限界には気付いている。社会や他者との折り合いのつけ方も学んだ。たとえそれが屈辱を強いるものだとしても、自分に求められているイメージをあえて振る舞うこともできる。その上で、人生こんなもんだと気取った諦めをシニカルにしてみせることもお手の物だ。
そんな自分を心底嫌悪しているにもかかわらず、相変わらず他人を侮蔑し、調子のいい言葉で自分の今いるポジションを正当化する。
この人生は自分のものであったはずなのに、多くの選択肢があったはずなのに、いつのまにか進むべき道も、逃げ込む道すらも見失ってしまっている。
このままずるずると老いていくしかない人生を呪い、煩悶するが、今まで無造作に積み重ねてきたものが枷となり、そこから抜け出すことを邪魔するのだ。

本作の主人公馬渕は、脚本家になるために脚本を書き続けているが、それは昔のような無垢で希望に満ち溢れた「夢」とは程遠く、ヘロイン中毒者が滑稽なまでにヘロインに拘泥してしまうようなものだ。
彼女は自分が生きている意味を失いたくないから書き続けているだけであり、脚本家になるという彼女の「夢」はボロボロに傷付けられ、ほとんど骨組みしか残っていない。
それでもそれに縋らなければ、彼女は生きられない。なぜなら、それを放棄することは、今まで努力してきたこと全てが無意味なことだったと宣言するようなものだから。
彼女は幾度も挫折し(34歳になっても、彼女の脚本はたった一度も、一次選考すらも通過したことがないのだから!)、自分の才能の無さが頭にチラつきつつも、ただひたすら書き続けることでその考えを頭から追い出し、なんとか自分を保っている。
あんなに好きで脚本を書いていたはずなのに、誰にも認められず、その苦しみを共有できる人もいない。時間だけが過ぎて行き、自分だけ置いてけぼりにされた感覚に陥り、脚本を書くという絶対的な目的・指針のみがなんとか彼女を繋ぎ止めている。
しかし、もはや自分に書きたいことなどなく、一次選考を通過するために、監督やプロデューサーに認められるために、彼らが求めるものにおもねった凡庸な脚本を書くことしかできない。
歳を重ね、失敗しても「次がある」とは信じられなくなり、傾向と対策を信奉する教科書的な方法、脚本賞を受賞する確率が高そうな題材で脚本を書くが、それが認められるはずもない。
いつかその努力が報われ、豊穣な果実を実らせることを信じて「34歳」まで書き続けてきた彼女は、どんどん追い込まれていく。

自分よりも経験も熱意も乏しい後輩に映画の脚本の依頼が舞い込み、若いだけで無根拠な自信だけが取り柄の「ビッグマウス」に脚本のダメ出しをされ、やっとの思いで書いた脚本は無下な扱いをされ、脚本家として成功した昔の学校仲間に会うが相手は自分のことなど少しも覚えておらず、昔付き合っていた男に助けを求めるが自らの怠慢により呆れられ、実家に帰れば旧友の結婚式でおもしろくもない仮装をさせられ、「脚本を書いている」というだけで嫌味たらしく自分を持ち上げる友人には咄嗟に「映画の脚本を書いている」という嘘をついてしまう。

周囲の環境が、他人が、なにより自分自身が自分を追い詰めていく。
そんな彼女のどん詰まり感に心が痛む。ただ好きなことをし続けていたいだけなのに、なんでこんな惨めでみすぼらしい思いをしなければいけないのか。
「誰か!誰か、この私を救って!」
そんな彼女の悲痛な叫びを4分近い長回しで残酷に見せつける場面は、この映画の事実上のクライマックスと呼ぶべきシーンだろう。
酔っ払った馬渕さんは、元彼に自らの現状を吐露し、無様な姿で泣きじゃくる。
「夢を諦めるってこんなに難しいことなの?夢を持つのは簡単なのに、なんで諦めるのはこんなに辛いの?」
「夢を諦めるな。諦めなければいつか夢は叶う」と軽々しく言う人がいる。その言葉がどんなに辛辣で残酷な言葉になりうるのか一顧だにすることなく。
RHYMERTERの『ONCE AGAIN』の歌詞を引用する。

夢、別名呪いで胸が痛くて
目ぇ覚ませって正論、耳が痛くて
いい歳こいて、先行きは未確定

「夢」は人を縛り付ける「呪い」であり、いつまでも人を苦しめる。
あんなになりたかったはずなのに、やりたかったはずなのに、その「夢」こそが自分を傷付け、選択肢を無くし、人生を窮屈なものにしてしまう。
それでも、それがたとえ惨めでくだらなくて、他人の嘲笑を誘い、死ぬまで報われないものだとしても、それでも「夢」に賭けられるのならそれでいい。
しかし、大抵の人はそんな愚直に「夢」を追うことはできず、「夢」=「呪い」に苦しめられ、もっと色んな可能性があったはずなのに、もっと幸福な未来が待っていたはずなのに、と過去に拘泥してしまう。
馬渕の苦悩も葛藤も後悔も悲嘆も鬱屈も全部、他人事には思えない。
自意識を拗らせて、拗らせて、拗らせて、今だって苦しいのに、これが「34歳」まで続くのかと思うと、その途方もなさを思うと言葉に詰まる。

そんな馬渕を救うのは、傲岸不遜で無根拠な全能感丸出しの「ビッグマウス」天童だ。
自分で一つも脚本を書いたこともないのに他人の脚本に上から目線でダメ出しする天童を馬渕は嫌悪する。若さ故の愚かさを許容することができない
なぜなら天童は若き日の馬渕自身だからだ。
10年近くかかってやっと脱ぎ捨ててきたものを全部纏って自分の前に現れたその若者は、自分が突かれたくないところに土足であがりこんでくる。
そして気付くのだ、あの頃あんなに忌み嫌っていたつまらない大人になってしまった自分に。
しかし、そんな天童のみが、泥沼で足掻く馬渕を救い得る。
天童と向き合うことは自分自身と向き合うことであり、拗れきった自意識と向き合うことで、馬渕は自分が心底書きたいと思う脚本に取り組むことができるようになる。
怨恨と後悔に満ちた「夢」のためではなく、脚本家を志した時の原初的な衝動が彼女を突き動かす。
「34歳」の彼女ができる最後の抵抗だ。最後の「ONCE AGAIN」だ。
だが、だからといって誰もが勝者になれるわけではない。夥しいほどの敗者の、その死屍累々の先にしか勝者はおらず、そこに辿り着けるのはほんの僅かの人間だけだ。
出来上がった脚本は賞を受賞することはなく、彼女は敗者のまま「夢」を諦めることになる。結局、一度も勝者になることなく彼女の脚本家人生は終わってしまう。勝者の歓びも栄光も名誉もなにもなく、今まで書き続けてきた脚本が後世に遺ることもない。
結局全部無駄だったのか?
無意味な人生だったのか?
違う!断乎として。
彼女にとって、賞を取るか取らないか、勝者になるか敗者になるかは最早問題ではない。
映画『ロッキー』でシルヴェスター・スタローンは、なぜ負けるとわかっているにもかかわらずリングに立ち続けたのか。
それは自分がしみったれた負け犬じゃないことを証明するためだ。
なにものにもなれず、なにも成し遂げられず、このまま無意味なままで終わってしまうかもしれない自分の人生を肯定するために。
たとえそれが無様でかっこ悪くて、みっともなくて、なんの変化ももたらさないとしても、人生でたった一度きりでもいいからなにかを貫き通す。その姿は普遍的に人を感動させ、鼓舞し、燻り続けた魂に再び火を燈すのだ。

「35歳」になる手前、「34歳」で馬渕は「夢」を諦めることを選ぶ。しかし、そこに自堕落な諦念はまるでない。むしろ、映画のラストシーンで「夢」を諦めて田舎に帰る馬渕の姿は、どこまでも爽やかで、晴れ晴れとしていて、清々しい。
「夢」を持つことはそんなに難しいことじゃない。「夢」に向かって努力することもたいした問題ではない。しかし、「夢」を諦めることは辛いし難しい。その「夢」に真摯であればあるほどだ。
馬渕が「夢」を諦めた先に見える風景はなんとも美しい。それは彼女が「夢」を捨てたからではない。彼女は「夢」を託したのだ。
脚本家になるという「夢」を天童に託すことで彼女は「35歳」に向かう。
自分を縛り付ける「夢」の呪縛から解き放たれるためには、後ろに続く者たちのための踏み台になるしかない。自分が「夢」の主体にならなくてもいいのだと考えるだけで、ふっと肩の荷が下りるだろう。
それはオンボロで、すぐに壊れてしまうものかもしれないが、その踏み台なしでも大いなる飛躍はなされない。
その飛躍は自分が生きることが叶わなくなった世界でなされるかもしれない。しかし、それがなんだというのだろう。愉快ではないか。

『ばしゃ馬さんとビッグマウス』で描かれる馬渕さんの「夢を諦める」という選択は、現実に挫折し、夢を諦めるというニヒリスティックな現状追認ではありえない。
彼女はロッキーのように、自分の人生がしみったれた負け犬のそれじゃないことを証明してみせたのだから。
「35歳」になる直前、暴走しきって収まりのつかない自意識と真正面から対峙し、「夢」を諦めることで新たな一歩を踏み出したのだから。