『ヒミズ』ー苦々しくも誠実な希望



園子温監督最新作『ヒミズ』を観た。
どこから書けばいいのだろうか。何か落とし処を決めて書くわけではない。断片的にこの映画から想起されたことを書き連ねるだけになってしまうかもしれない。意図せざる結論に至ってしまうかもしれない。それでも、この映画は少なからぬエネルギーを消費してでも何かを語らせたいと思わせるー少なくとも僕にとってはー映画であった。

この映画に関しては既に数多くの方が、賞賛にしろ批判にしろ、犀利かつ明敏な文章を書いているので、今更何を書いたらいいのか戸惑う。語りはじめというものは常に困難なもので、いつもまずそこで躓いてしまう。この躓きを無くす為にとっかかりを設けてみようと思う。個人の信条として、“感想の批評”はできる限り避けてきた。なぜならそれは、“これこれを知らなければ語るなど烏滸がましい”“これこれの良さを(ダメさを)わからないなんて馬鹿だ”などといったくだらない、唾棄すべき脅迫にも似たものに帰結してしまうからだ。他人より優位に立ちたいという自意識に回収されてしまうからだ。しかしながら、自分とは異なる感想や批評はある種のとっかかりとしては最適とも言える。何故自分はこの批評・感想に納得できないのか、という素朴な疑問から自らの文章を始めることは往々にしてあることだ。決してそれが“だからあの人は、あの批評・感想は何もこの作品についてわかっちゃいない”というような見窄らしい高慢な自意識に陥らないように慎重に書かなければいけない。映画の善し悪し、面白い面白くないを決める基準は個人が決めればいいものであって、それに関してとやかく言う権利は誰にもない。

では、『ヒミズ』に関して最も批判に晒されるポイントはやはりあの震災後の風景を使用したことだろう。実際これに関しては観る前から多くの人が懸念していた事項であり、その一抹の不安が本編によって増幅され、(主に否定的なものとして)激烈な感情を引き起こす要因になってしまったのではないか。曰く、被災地を、被災者を、フィクションに、娯楽に物語的必然性もないままに取り込むことで彼らの悲惨を話題作りの為の宣伝材料に“利用”し、搾取の構図を生み出してしまっているのではないか、と。この言説自体は紛うことなく正しいことで、もしそうした搾取の構図を生み出してしまうのならそんなものはすぐにでも遺棄されてしかるべきものだ。しかし、と同時に、こうした言説はあの日以来さまざまな形で藝術を拘束してきたものでもある。搾取の構図から逃れようとするあまり、現実に対して誠実に向き合い、真っ当なメッセージをてらいなく伝えることを恐れてしまい、“あえて”を使わざるをえなくなる。この“あえて”が非常に厄介なもので、なかなかこれを拭い去ることはできない。なぜなら、声高な、ほとんど脅迫的なメッセージ性を言葉でもって語ることは藝術においては、とりわけ映像で多くを表現する映画という藝術においては、疎ましくも喧しくもあり、非常に鼻白むものだからである。言葉によるメッセージ性は忌避される。僕自身映画には基本的にはそうあってほしくない。そうしなくても映画は雄弁に語れると信じている。けれど、今は状況が違う。個人的には、あの震災以降映画には、特に劇映画にはそういった映画的表現・技巧の素晴らしさより、何よりまず、どんなに稚拙で不器用でも、藝術がこの圧倒的現実に対してどう抗えるかを謳い上げてくれるようなものであってほしいと思ってきた。そういう意味で『ヒミズ』は震災以降の藝術の在り方としてはむしろ真っ当な作品になっているのではないかと感じた。

搾取の構図とはどのようなものか。それは、たやすく代弁の言葉を語ること、安易に観客と被災者の同一化を促し感情的にさせることでカタルシスや救いを与えること、現実はこんなにも凄惨なのに何をしているんだといった半ば強迫的な説教をすること。それらは詰まるところ、直接的な被災者の気持ちを“理解”した気でいたり、“わかった”ふりをしてしまうことから生じる。被災者でない人間にとって、本質的に被災者の苦境・苦悩を理解することなどできない。できるはずがない。理解した気になってしまうと、そこで何かが解決してしまったかのように誤解してしまう。実際には何も解決などしていないのに。そういった安直な”理解“は被災者の the only onenessを破壊してしまい、結局自分の感情を気持ちよくする為の手段として”利用“したり、その気持ちよさを目的とした藝術を生み出すことに繋がってしまう。これこそ搾取と言わずになんと呼べばいいのだろうか。最大公約数的な誰もが消費しやすい、理解しやすいストーリーを紡ぐことに震災という題材を組み込み、“利用”すること。これこそが最も不誠実な藝術の在り方と言えるのではないか。

ヒミズ』はどうか。震災という題材と誠実に向き合って、決して搾取の構図に陥ることなく、“今”しか描かれ得ないことを描いているか。
この映画は“希望”を描いた話である。しかしそれは、非常に苦々しく、無根拠で惨たらしく、非道徳的で救いがなく、観ている側を無限の“わからなさ”に突き放す剥き出しの現実に、どうにかして抗いつつ、恥辱に塗れた生を生きていかなければならないという、ほとんど希望とは言い難い“希望”である。故にこの“希望”は誠実である。
物語は冒頭あの震災の光景から始まる。この映画を観ていて、途中から僕の頭に想起されたものは原作の古谷実版『ヒミズ』ではなく、34年という短くも凄惨な人生を自ら死を望むことで終わらせた天才的なドイツの劇作家兼詩人のハインリヒ・フォン・クライストが1810年に発表した短編小説『チリの地震』であった。この小説に関しては震災後多くの知識人が言及したこともあってその存在を知っている方も少なからずいると思う。たった40ページにも満たないこの小説。映画版『ヒミズ』はこの『チリの地震』を彷彿とさせる描写に満ちていた。19世紀に遠い異国の地で書かれた小説と21世紀に日本撮られた映画との不穏な共鳴。
以下の『チリの地震』に関する解釈は佐々木中の『アナレクタ3砕かれた大地に、ひとつの場処を』に収容されている「砕かれた大地に、ひとつの場処を」から多くを援用させていただきました。詳しく知りたい方はぜひこちらを参照してください。
では、『チリの地震』の説明に入る前に。根拠、あるいは理性とはドイツ語でGrund(グルント)と言い、これは英語で言うところのgroundにあたるものである。つまり、この大地こそが根拠であり、理由であり、理性を働かせる何か、である。グルントが地震によって揺り動かされるということは、世界の根拠が、世界を司る理性が揺らいだということであって、キリスト教的な根拠=大地が崩壊してしまうことを意味する。
『チリの地震』は冒頭、「チリ王国の首都サンチェゴで、何千という人間が落命した1647年のあの大地震のまさにその瞬間、さる犯罪のために告訴された、その名もジェローニモ・ルグェーラという一人の若いスペイン人が、監禁されていた牢獄の柱の下に立っていましもみずから首をくくろうとしていた。」と始まる。ジェローニモという若い男がジョゼフェという貴族の娘の家庭教師として彼女に接しているうちに、二人は次第に愛し合うようになる。ジョゼフェの父はそのことに激怒し、ジェローニモを解雇、ジョゼフェを修道院に無理矢理入れてしまう。それでも彼女を忘れられないジェローニモは、修道院に忍び込みジョゼフェを懐妊させてしまう。修道女の懐妊は当時としては大スキャンダルであり、ジェローニモは投獄され、ジョゼフェは斬首刑に処せられることになってしまう。しかし、死刑執行が行われようとしたまさにその時に地震が起き、ジェローニモは牢屋から逃げ出すことができた。ジョゼフェを探す彼の耳には「ジョゼフェの首が飛ばされるのを俺は見た!」といった言葉が聞こえ、彼は愕然としてしまう。ところがそのまま歩いていると、ジェローニモはジョゼフェと息子のフィリップとの再会を果たすことになる。地震により死刑台が破壊され、彼女は生き残ったのだ。つまりここでは、地震によって二人を抑圧し断絶を強いていた法も秩序も制度も、それを支える人々も消失してしまったのだ。
二人は友人であるフェルナンドとその妻エルヴィーレ、彼女の妹コンスタンツェ、息子のホアンと出会い、そこに周りの人々も加えてお互いに無償の助け合いをすることで、甘美でユートピア的な、美しい助け合いの共同体を生み出していく。地震によってこの世界の根拠が、罪や罰の根拠であるグラントが揺さぶられてしまった。それはつまり秩序が消失してしまうということ。逆に言えば、わたしたちを隔てる、区別する、差別する、格差をもたらす秩序もまた消失してしまったということであり、ゆえにそこにはある種のユートピア的な自然状態が、献身的な共同体感情が生じる。
そんな折、難を逃れたドミニコ会大司教代理が人々に向かって演説を始める。この地震、災厄はサンチャゴ市の道徳的頽廃によって生じた天罰であり、それをもたらしたのはジェローニモとジョゼフェである、と。ここで奇妙なことが起こる。
人のアイデンティティーは法によって保証される。法は根拠なしには存在しないが、同時に法自体が根拠でもある。であるとすると、地震によってすべての根拠が揺さぶられ、秩序もろとも崩壊してしまった今、何が起きるのか?それは誰が誰だかわからない、自己同一性=アイデンティティーの消失である。
「ここにいるぞ!」という糾弾の声があがるなか、ジェローニモに勘違いされたフェルナンドは民衆に命を狙われ、それに必死で応戦する。ジェローニモ自身も「ジェローニモは俺だ!殺すなら俺を殺せ!」と言って応戦する。そこでフェルナンドも「この人はジェローニモではない!私を助けようとしてくれているだけだ!」と機転を利かせる。
するとここで不意に読み手をぎょっとさせることがおこる。「こいつがジェローニモだ!俺にはわかる!なぜなら俺はジェローニモの父親なのだから!」という声とともに、一瞬のうちにジェローニモは棍棒によって殺されてしまう。本当にジェローニモの父親かどうかはわからない、わからないままにジェローニモは殺されてしまう。ここでクライストは、意図的にだろうが、何の説明もしていない。“わからなさ”を突きつける。
続いてジョゼフェに間違えられてコンスタンツェが殺され、その罪の意識に苛まれたコンスタンツェは民衆に身を投じ殺される。さらに、フィリイプとホアンのどちらかが殺される(この時点では明記されない)。結局、殺されたのはホアンで、フェルナンドとエルヴィーレは自らの子ではないフィリップを抱え、逃げていく。「自分の子のような気がする。」と言って。

たったこれだけの話だ。しかしここには、多くの思考を喚起される実に豊穣なモチーフがいくつも鏤められている。
大地=根拠たるグルントが崩壊することで法・制度・秩序も崩れ、自己同一性が消失する。故にユートピア的な共同体と凄惨な暴力が同時に発生する可能性が生じる。共同体というものは外部を排除することによって成り立つ為、秩序がない時には外部の排除に歯止めが効かなくなり、酸鼻な暴力が振るわれうる。これは必然ではないが表裏一体で常にその可能性は纏わり付く。
また、“自分が自分である”ということの根拠はどうしたって外部に求めるしかない。“自分は自分である”といくら騒いでも、それを根拠付けるものがない限りにおいては狂人の戯れ言にすぎない。故に外部にある根拠が揺さぶられると、誰が誰であるかわからなくなってしまう。それは“自分が自分である”ということを信じられなくなるということ。震災以前の自分と以降の自分が同じ人物であると信じられなくなること。震災以前と以降は完全に断絶していて、違う世界に住んでいるような感覚に陥るということ。
この世にある法が、道徳が、根拠が、あらゆる信仰がすべて根拠のないものになってしまいかねない。そういった事実が露呈した瞬間、甘美な助け合い精神・共同体が生じるが、しかしそこでは同時に恐るべき暴力の可能性も生じる。そこには無根拠で残虐で、非道徳で救いもない、剥き出しの現実がある。この現実を直視し、なおその事実にただただ屈従しニヒリズムに陥るのではなく、そこから新しい根拠を創らなければならない。それは創っては壊される、そんな終わりのない戦いではあるが、それに抵抗することが藝術の誠実の在り方のように思う。ここで言う藝術は決して通俗的な意味での藝術だけでなく、その射程は広い。圧倒的な破壊に対して何か新しい完璧なシステムが自動的に創出されることはありえない、そんなことは期待するべきではない、人の力を介在させなければならない、人間なめんなっ!!

ヒミズ』は『チリの地震』に似ている。
震災後全てを失ったのであろう夜野を含め住田ボート店周辺に段ボール暮らしをしている人々は、ユートピア的な共同生活を営んでいる。彼らは純粋に助け合い、表面上は震災のことを無きこととして、それ以前とは断絶された生活を平凡に送ることで、その痛みを忘れ去ろうとしている。しかしながら、そこには後の暴力の発露を予感させる嫌な描写も同時に差し込まれる。ただ誰にも迷惑をかけず、“普通”の大人になることを望む主人公の住田は常に既に“何か”に抑圧されている。それは両親や学校という震災以前と変わらぬ既存の共同体からの疎外故の抑圧でもあり、震災という背後にある可視化できない超越的なものからの抑圧でもある。住田は一貫して諦観している。死を恐れない。共同体の外部に対して(時に内部の人にさえ)は露悪的とも言える暴力性を露わにする。人物として非常に歪で、こちらの感情を彼に同一化させることは難しい。そこの人物造形こそがこの映画のキモであり白眉であるように思う。園子温監督は安易な感情移入を拒否し、被災者の気持ちを“代弁”し“理解”させることを避けようとしている。そこに潜む搾取の罠に嵌入していない。
映画の終盤である人物が「俺は誰なんだ!何者なんだ!俺はなにをしたらいいんだ!」と喚き散らす。これは当然住田自身の叫びでもある。自分が何者であるかわからない、自分がなにをすべきなのかもわからない、自分が他者に世界に必要とされているのかわからない、自分の存在意義が見出せない。そういったアイデンティティーの崩壊がここで示される。そしてそれは最悪な形での暴力の発露に繋がってしまう。
こうしたように、『チリの地震』で書かれたようなモチーフが『ヒミズ』でも描かれる。繰り返すと、地震による根拠の崩壊によって、外部に根拠を求めることができなくなったために自己のアイデンティティーを信じられなくなり、故にそこではユートピア的な美しい共同体感情・助け合い精神と酸鼻で凄惨な暴力とが同時に出現している。こうした状況下で住田は屈辱に塗れた生を生きている。彼は自らが引き起こしたある出来事をきっかけに“普通”の人生を諦め、残りの人生を“オマケ”人生と名付け、世界をこんなものにしてしまったなにか絶対的超越的な“悪”を排除することに腐心する。世界には自分を苛ませるなにかが存在し、今のこの痛痒は全てはそのなにかに責任があり、それを排除することで自分が自分であることを保証できると思っている。しかしながら、現実にはそんな“悪”など存在しない。もちろん住田個人にこうした状況の責任が局所化されるわけではないが、ここで住田は自らの変革を求めようとはしていない。赦し難い状況に対して憤り、何かを変容させようと奔走しても自己の変容が伴わなければそれは結局無為に終わってしまう。ここで大事になってくるのは、宮台真司の言葉を借りれば、ホームベース=感情的な安全を保障する場である。誰かが自分を必要としてくれている、自分の生を肯定してくれる、根拠無き今“自分が自分であること”を保証してくれる、そういった感情的な安全を保障してくれる場処・人がない限り、自己の変容は難しい。自己の変容へと踏み出す勇気を出すことができない。住田にはホームベースが完全に欠如している。いや、住田だけでなく劇中に出てくる人物はほとんどこのホームベースが欠如している。それはこの映画で唯一住田を救いうる人物として登場する茶沢にも当て嵌まり、彼女は住田への妄信的な、ほとんど狂気に近い信頼と言葉だけでなんとか自分を保っている。他者からの感情的保証はない。だからこそ映画のラストに茶沢から住田に語りかけられる言葉が途方も無く響くのではないか。茶沢の、“生きてもいいんだよ”というたったそれだけの言葉が住田を生に繋ぎ止める。しかしそれは、単純な生温い“生”の肯定などではなく、苦々しくも赦し難い現実を受け入れ、いかなそれが汚れてしまったものであっても、それでも恥辱に塗れた“生”を引き受ける、という呪詛の言葉であり、希望である。住田にとって茶沢はホームベースとなり、茶沢にとって住田もホームベースとなる。故に「住田、ガンバレ!ガンバレ!」といういかにもな、空疎に聞こえかねない言葉が胸に重々しく響き、繰り返されるその言葉とともに走り出す二人の行為それ自体に希望を見出さずにはいられない。ここで彼らは遂に自己の変革を希求するのだ。園監督は言葉が空疎なものに陥りかねないということには非常に自覚的で、それは映画の冒頭で教師が“よきこと”の称揚に熱弁を揮うこと、その行為自体への自己陶酔の気持ち悪さ、空疎さを描ききっていることからもわかるだろう。一片の言葉に人は時に当惑し、憤慨し、狂乱し、絶望し、裏切られ、それでも希求し、時に昂揚し、鼓舞され、救済され、そこに根拠を求めずにはいられない。信じずにはいられない。

ヒミズ』は前述したような、被災者のthe only onenessを消失させてしまう安直な“理解"や“代弁”でもってその感情を消費することで自分を気持ちよくするだけの手段として震災を利用するような作品にはなってないと思う。むしろ震災以降の藝術の在り方としては、個人的には非常に真っ当で誠実な姿勢を感じる。被災者の気持ちを利用するのではなく、震災によって根拠が揺さぶられてしまった後の人々と状況を誠実に真っ向から向き合って描き出すことで、そこにある種の普遍性が不意に生じる。住田の孤独や苦悩は少なからぬ人が抱えたことのあるものであろうし、震災はそういった可視化されず内在していたもの露呈させた。だとしたら『ヒミズ』が謳いあげたメッセージを無下にしてしまうことは僕にはできない。たしかに声高な、ほとんど脅迫的なメッセージ性はウザいし鼻白むものではあるけれど、それでも“あえて”の策を弄するよりもド直球でなにかを伝えなきゃいけない時がある。今の日本はまさにその時なのではないか。
まさか園子温監督作品からこんなにも愚直なまでにストレートなメッセージ性が提示されるとは思わなかった。彼もまた、震災によって断絶を強いられてしまったのかもしれない。だからこそ、2011年に、ここ日本で、園子温によって作られたことに、その時代性に意味があるような、つまり、圧倒的現実にただ屈するでも、死者や被災者を利用するでもなく、“今”語られるべきことを奇を衒うことなく語った、“今”作られるべき映画に『ヒミズ』はなっているように思う。

誰にとってもという作品ではもちろんないだろうし、嫌悪感を抱く人がいてもそれは否定できない。それでも個人的には非常に思考を喚起される素晴らしい映画であったし、なにより藝術の側からかの震災に対してどのように抗っていくかを示してくれた希有な作品であったので、ただひたすらに感激してしまった。