今年の映画、今年のうちに〜2011〜

早いもので2011年ももう終わろうとしているわけで、相も変わらず実家の炬燵で一日中ぬくぬくしていると、今年を振り返ってみたくなるもので、今年観た映画にことでも書いて今年の総括でもしてみることに。
映画の感想とかランキングを書くという行為の気恥ずかしさったらなんだろうと常々思う。というより、自分の好き嫌いを曝け出すことはある種の気恥ずかしさを感じずに書くことは僕にはできない。もっと言ってしまえば、何かについて書くという行為自体に気恥ずかしさを感じてしまう。故に今まで書いてきた諸々の内容とその文体はある一定の距離を保つことで、意地悪な言い方をすれば安全圏に安住することで、文章の内容や文体に対する批判を直接的に自分自身に向かうことがないように書いてきた。そうすることであの忌まわしい、最も悪しき意味でのポストモダン的なシニシズム、嘲りから自分を守ることに腐心してきた。もうやめだ。あの日以降、そうした空気はより強固なものになったように思える。人に嘲笑されたくない、突っ込まれたくない、いい人間だと思われたい、そんな自意識を捨てることから始めなければ。そろそろ本気で書くことに向き合わなければならないと痛く実感させられた、そんな一年だったので、その最後を締め括る文章にまず本腰入れて取り組んでみようと思う。だからと言って、学術的な小難しい文体だけを称揚し実践するというわけではなく、書く対象が要請する文体で書くことを目指したいと思う。うまくいかないのではないか、一貫したものではないので読みやすい文章にもならないのではないか、結局全てあの醜い自意識に回収されやしないか、そんな不安に駆られはするが、それでも書いてみることにする。そこで踏み留まることはもうしないと決めたのだから。“今日という日を再び生きながら、決して汝の精神があの重々しい言葉がかすめることがないように、そんなことをして何になる、という例の言葉が”というポール・ヴァレリー箴言を重々噛み締めつつ書かなければならない。

これはあくまでパーソナルな制約であり、それを普遍のこととして敷衍させてしまうことはこの文章の本意ではない(そもそも公開するかも今の時点では定かではない)し、そうした自分語りだけは避けたい。そうなることがないように書くつもりではあるけれども、もしそう感じさせ嫌な思いをさせてしまったとしたらそれはあくまで書き手の不備であり欠落です。今後の為にも是非忌憚ない批判していただけると幸いです。


僕は佐々木中という男にかぶれている。彼の思考の方策、哲学的思想、そしてその実践。その全てにかぶれている。
彼が上梓した『夜戦と永遠』を読んでからというもの、数多の本や映画、音楽などの一般に謂われる意味での藝術を享受し、日々の生活の営みを続けることで、殊更にこの書物の射程の広大さに気付かされ、改めて感嘆せざるを得ない。
『夜戦と永遠』は“書くことの偶然性・本質的な賭博性と勝っては負ける終わりなき戦いの話”を中心に据え、ラカンフーコーの晦渋な議論を精緻に読み解いていき、ルジャンドルを補助線に呼び入れることでまさに永遠の夜戦の時空としか呼びようのない場所と時を創出する。
佐々木中は雄弁であること、わからないことを恐れない。
周りの斜に構えた連中のせせら笑いなど気にしない。笑わせておけばいい。そんなものに右顧左眄させられる謂れはない。
とかく何かを語る際にはすべてを語ろうとする人がいる。自分は“知と情報”を所有していると思い込んで、所有していないと思い込んでいる人を嘲笑し罵倒し、“これこれを知らなければ語るなど烏滸がましい”“これこれをわからないなんて馬鹿だ”などという無為な脅迫を強いる。
そんなものは唾棄すべきだ、くだらない。そうした状況に抵抗しなければならない。
彼は“本を読んだ、読んでしまった以上、正しいと思ってしまった以上、その言葉にこそ導かれて生きる他はない”と述べた。この言葉を借りるならば、“映画を観てしまった以上、正しいと思ってしまった以上、その映画に導かれて生きる他ない。語る他ない”。故に、この文章を書くことに自分を導いてくれた映画をベストにした。そうしなければならなかった、の方が正確であろう。

2011年劇場で観た新作映画は115本。DVDで追っかけたのが5本。なのでその中から10本選びたいと思います。

10位 アジョシ

体脂肪3%!みたいな映画でした。1対多数のアクションに必然性与える、観てる側が納得できる演出をしてて目から鱗でした、あれは。ウォンビンかっけーってのとセロンちゃん不憫!守ってあげて!アジョシ!っていうのは言わずもがなで、個人的にはなによりマンシク兄弟の顔と殺され方が最高過ぎて素晴らし過ぎて、あいつらにまた会いてーよー!
韓国映画は役者がいい顔してる、いい顔した役者が出てる映画が多くて本当羨ましい!ハードコアでありながら間口を広げることは可能だと証明してみせたし、立派にこのジャンルに貢献してる偉い映画だと思います。日本映画でもこんだけのクオリティのアクション映画を年に一本は観たいですってことも込みでこの順位です。


9位 イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ

今年は積極的にドキュメンタリーを観にいって色々と打ちのめされたんですけど、自分が現代アートに感じていた胡散臭さ、胡乱さと“逆に”とかメタ的視点で語ることが孕む根本的な危うさを抉り出してて、当時はこの映画のことばっか考えてました。バンクシーはすごく聡明に冷徹に現代アートというシーンの問題を意識してて、しかもそれを全体として与件化して俯瞰的視点から見下ろした上で、処方箋を出すような態度は拒否してるのがこの映画の白眉かなと。この映画がある種シニカルに批判してることはそのままバンクシー自身に自己言及的に降り掛かるわけですから。どんだけ偉いんだよ!っていう。お前はちゃんと自分が感じたこと、正しいと思えることを語っているのか!?って主題はこの文章の意図にも通ずるものなので当然のベスト10入りです


8位 50/50

僕はジョセフ・ゴードン=レヴィットが出てるだけでその映画が80点増しになっちゃうぐらい彼が好きなんですよ。彼が出てるだけで何もかもが愛おしく想えてしまう。そんなわけでジョセフ・ゴードン=レヴィット映画はほとんど無条件で上位になっちゃいます。メタル・ヘッドと迷ったんですが、男同士の熱くなりすぎない友情描写の丁寧さととかく杜撰でステレオタイプな扱いをされがちな難病という題材にきちんと向き合ってて好感がもてたので。感情の発露までをじっくり丹念に描いてくれてるからあのシーンに至る必然性は納得できるし、そのカタルシスは半端ないことになってる。折に触れて観直したいと思える映画でした。アナ・ケンドリックもすっごい可愛かった!


7位 ソーシャル・ネットワーク

映画としての完成度の高さは今年観た映画の中でもズバ抜けて高い作品。デヴィッド・フィンチャーの映像美学の一つの到達点であると思うし、ただの会話劇がこんなにスリリングで緊迫した物語的高揚に昇華されるマジックが起きてしまっている。1つのシーンに織り込まれている情報量と重層的な意味が途方もなくて、何回観ても新しい発見があるし飽きがこない。観賞後の爽快な疲労感の心地よさもたまらない。ラストにみせるザッカーバーグのあの行為があまりに身につまされすぎて、初めて観た時はなかなか正気に戻れなくて、予想以上に生々しい痛みを刻み込まれてしまった。
タイトルとは裏腹に、本編は実際に“革命”起こすツールとなったFacebookそのものの話ではない。それにもかかわらず、この映画は紛うことなく“革命”の映画になっている。それは語ることの革命であり、なにも終わらないという勝っては負ける戦いの革命である。何度か観るうちにこうしたモチーフを見出すこともできるようになり、改めてこの作品の理論的に精緻に組み上げられた重層性を思い知らされる。しかしながらそれ故に、皮肉にも本来ならもっと上の順位だったはずのこの作品をこの順位に落ち着かせなければならない理由ができてしまった。それは後述する。


6位 ステイ・フレンズ

恋愛の一側面を描いた映画は大好きなのに、今までなかなか手が伸びなかったボーイ・ミーツ・ガールもの。このジャンルを避けてきたことを激しく後悔させられた、そんな意味で2011年一番の拾い物でした。カーアクションとかで、全然関係ない人の車とか破壊されてるの見ると、あれって保険とかおりるのかなぁ、あの車の持ち主はどう折り合いをつけるんだろう、とか考えてしまうタイプの人間なので、凡百のボーイ・ミーツ・ガールものは主人公のふたりさえよければ他の人物はどうでもいいものとして只の記号や背景に押し込めてしまう描き方がもやもやの原因だった。『ステイ・フレンズ』はその辺の描き込みに主人公にはなりえない人への愛が感じられて、心底感激しました。それでいて主演二人の魅力はちっとも減じてないどころか、むしろ増してるのは脚本と演出がしっかり練り込まれているから。アメリカ映画は本当に“今”を切り取るのが上手い映画が多くて、映画の時代性も感じれる、なによりフラッシュモブの多幸感がたまらない!


5位 冷たい熱帯魚

一切妥協のない圧倒的な残虐描写と性描写で描かれた世の中の不条理さと救いの無さ、それに迫力とリアルを吹き込む演者たちの演技と演出のキレ、テンポのあるストーリーテリング、音楽とSEの使い方のセンス、どれをとってもThe園子温映画。
ぬるま湯の日常をぬくぬくと生きている“普通”の人間の価値観や倫理観を破壊的に揺さぶり続けてくる二時間半。
今、現実に生きている世界とはこんなにも卑近で下衆で凄惨なもので、そうした世界の中で人は理不尽な苦痛に苛まされる。 劇中の言葉を借りればそれは「生きるってのはよぉ、痛いんだよぉ!!!」ってこと。
白眉はもちろんジャパニーズジョーカーでんでん。セリフも立ち振る舞いもぶっとんでて、これ一つでこの作品を体現してしまうようなインパクトのある悪。 同じぶっとんだ悪でもダークナイトのジョーカーみたいに自らの哲学に基づいた極めて知的で自己完結しきったカリスマ的な超越した悪じゃなくて、もっと普遍的に存在する下衆で卑劣な悪。 故に最も救い難き悪。
吹越満演じる社本は、自分というものを持たず、周りの人間にどんどん流されていく。結果として家族とすら向き合うことはなく、現実から目を背けて生きてきたフヌケ(現実に一番多いのはこういう中途半端な正義や倫理観、道徳を振りかざすような最も惨めで救い難き人間)が、村田という絶対的に振り切れた悪と出会うことで狂乱の異次元に否応なく引きずり込まれていく。ラストの怒濤の展開は賛否あるけど、無理矢理引き摺り込まれてしまった身としては何も言うことはありません。
こんなに笑えるとも思ってなくて、前評判のハードルの高さを軽々と超えてしまって、本当恐れ入りました。


4位 スーパー!

覆面ヒーローの自警行為に内在する変態性、狂気、自己矛盾を描いたら不意に普遍的なものが前景化してしまった。誰かを愛し愛されること、人から認められること、人生なんてそうした端から見たらなんでもないことといかに真摯に向き合えるか、積み重ねていけるかでいくらでも豊穣なものになりうるだろうし、それがないと途端にすべてがつまらなく無意味なものに思えてしまう。クリムゾンボルトが劇中でみせる気違いじみた自警行為を嘲笑することは僕にはできるはずもない。だって割り込みは、児童買春は、麻薬売買は、悪いもんは悪いじゃんかよ!!結果としてそれがどんなに惨たらしい、凄惨な結末を引き起こしてしまっても、世の中そういう風になっているなんて達観して安逸に過ごすことが正しいなんて思えない。この映画が偉いのは、だからといってクリムゾンボルトとボルティーを完全に周りから甘やかされた存在にしないことで、やっぱり彼らは行き過ぎた行為に対する代償を払わなきゃならない。それでもあの行為に至らなければならなかった、あの選択しかありえなかったからこそラストのあの“コマとコマの間を必死に生きてるのか?”というメッセージが実感をもって響くのだし、その誠実さに打ちのめされてしまう。虚からでた実ではなく、虚に潜む実に踏み込んで描くことで、普通なら物語の背景にされてしまう賭けに負ける者、無視され続ける者を嘲笑という名の呪詛の言葉をもって表舞台に引き摺り出すのではなく、慈愛に満ちた手(それは救いとは限らない)を差し伸べることで彼らに光をあてる。そんな優しい視点が作り手にはあると思えて仕方がない。
2011年のmy favoriteはエレン・ペイジのボルティーエレン・ペイジ大好き!


3位 緑子 MIDORI-KO

Twitter上でその存在を知って、なんにも情報入れずに観に行って、とんでもないアニメーションで、それから三日連続でUPLINKに通い詰めて、それでもまだまだ飽き足らない。それぐらい愛おしい映画になってしうほどにこの映画との出会いはまさにサッカーパンチであった。
アニメーションの快感、画が動くことの快感をこれだけストレートに表現できるのかと眩暈がするほど映像に酔いしれた。アニメーションにはまだこんなことができるのかとひたすらに感心した。黒坂圭太という男が鍛錬の果てに到達したものとはかくもグロテスクに美しいものであったのかとただただ感服した。
『緑子』の画面は一分の隙もなく蠢動し続ける。それだけで気持ちいい。なぜか。何度観てもわからない。そんなことを問うことすら野暮なことなのかもしれない。脳に直接訴えかけるような心地よさ。55分間最初から最後まで多幸感が横溢し、この映画でしか味わえない快感が存在するのだと思わせてしまう『緑子』の魔力を形容することは僕にはできない。



2位 サウダーヂ

観た後に世界が違って見えるということがある種の評価の基準になるとするならば、『サウダージ』は恰好の対象となると思う。非常に重層的に綿密に織り上げられてつくられた映画なので、どの要素を取り出すかによって色々なことを語ることができる映画ではあるが、いやそれ故にどこから話していいかわからない。もちろん大まかな物語をなぞることはできる。だが、そこから零れ落ちてしまうもの、大枠の物語には回収されないが故に不意に滲み出てしまうもの、そのひとつひとつをこそ嚥下すべきだと思う。そこを取り除いてしまってはこの映画のもつ種々の批判性の射程を矮小化するだけになってしまうから。
個人的な関心から一つ挙げるとするなら、それが純粋な無償の善意から要請されたものだとしても、薄っぺらなグローバリズムや安直なLove&Peaceが決してありえなかったはずの最悪な未来への引き金となりうることもある、というのは繋がることが“よきこと”としてやたらと顕揚され強制される今の時代においては一笑に付すことはできないはずである。
『サウダーヂ』のひとつひとつのシーンの面白さは実地の丹念な調査という“実”と作り手が付け加える“虚”とが微妙なバランスを保つことで成立している。そこでは実と虚とが不穏に共鳴している。
冒頭のラーメン屋のシーンからラストのワンカットまで、各々の登場人物たちはもはやありもしない理想化された“ここではないどこか”を希求するものの、それはつねにすでに失敗し挫折する。負け続ける者たちの映画だ。


1位 無言歌&鳳鳴ー中国の記憶

この二作品はコインの裏と表のように分ち難く結びついていて、どちらか一方を抜きにして順位付けすることができなかったので、反則技だとは思いつつセットで1位にした。
順番としては、『無言歌』『鳳鳴』『無言歌』の順で鑑賞。最初の『無言歌』は情報を何も入れずに観たので、ただただ撮影の美しさと演出の巧みさ、ドキュメンタリーと見紛うほどの徹底的なリアリズムに圧倒され、その時点でベスト10入りは間違いないと思って『鳳鳴』を観たら、、、
鳳鳴』は和鳳鳴という名の老女がカメラを前にして3時間ひたすら語るだけの映画である。そもそもそれが1本の映画として成り立ってしまうことがほとんど奇跡的であるし、語られることは反右派闘争時に右派のレッテルを貼られ迫害を受け続けた彼女の半生である。生半可な語りでは3時間もの長尺などもつはずがない。退屈かもしれない、そんな気持ちを鑑賞前に抱いた自分が恥ずかしくなるぐらい、彼女の流麗な語り口から眼前に想起されるヴィジョンは驚くほど明瞭である。なるほど監督のワン・ビンは『無言歌』において、圧倒的なリアリズムで反右派闘争下の劣悪な環境での強制労働の悲痛な有様を描き出した。だが、それに勝るとも劣らないほどの光景をこちらに想像させるだけの力が彼女の語りにはある。映画にはまだこんなこともできるのか。
そうした形式的な斬新さももちろんのことだが、個人的に何より『鳳鳴』に感銘を抱いたのはその主題である。その主題が故にこの二作を1位にしなければならないと強く感じるようになった。この映画は反右派闘争当時には遂に為し得なかった“革命”を回顧的に語るだけに留まらず、この映画それ自体が現在の“革命”になりうるのだ、と。語ることの革命である。そう、この映画があるが故に僕は『ソーシャル・ネットワーク』をあの順位にせざるを得なかった。佐々木中の言葉を援用するならば、革命の本質とは、“テクストを、本を読み、読み変え、書き、書き変え、語り、歌うこと”である。そしてそれは、99.9%負けることを前提として、そうした絶望的な状況を当たり前の前提として、それでも戦う、勝っては負ける終わりなき戦いの果てになされる革命である。これはほとんどが負ける絶望的な戦いではあるが、0.1%が生き延びれば勝つ戦いなのだ。反右派闘争は歴史に抹消された惨劇であり(『無言歌』は本国中国での公開が禁止されている)、地獄と言うも愚かな圧倒的な現実の見せかけの偽りの消失の最中で数多の名もなき生命が失われた。和鳳鳴は生き延びた。革命の糸は途切れることがなかった。『鳳鳴』のラストで静謐な語りを続けてきた彼女は不意に声を荒げる。
55万もの人間が不合理に右派のレッテルを貼られた。そのほとんどが現在までに名誉回復を完了させた。しかし、まだなされていない人間がいる。それは100人にも満たない、全体から見れば極僅かなものである。それでも彼らの名誉回復がなされるまでは反右派闘争について語り、書き続けなければならないと彼女は語る。たった0.02%の敗北である。彼女はゼロではない極小の可能性のためにこれからも書き、語ることによって抵抗を、終わりなき勝利への賭けを続けるだろう。
これ以上言葉を紡ぐことは蛇足であろう。こうした背景のもとで再鑑賞した『無言歌』は2011年に観た映画の中でも他に比肩するもののないほど格別な映画体験を与えてくれた。偶さかの体験を。


2012年はどんな映画と出会えるのだろうか。
願わくば『無言歌』を超える映画体験ができることを。